「きりぎりす」と「ねじ巻き鳥クロニクル」

090910_225943「きりぎりす」、先程ご近所の読書家の方との会話から、教えて頂いた太宰の短編です。(昭和15年の作品。)

早速、気になって買って来ました。本屋の駐車場で読み始め、本当に短いのであっという間でしたが、なんともその女性の生き方が潔い話でした。

私は、本によっては、読んでから熟成させる性質なので、この本についてはご紹介まで。

しかし、この女性、今後どうなるのだろう。。

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さて、話題が変わりますが、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」。この作家の中で好きな作品の一つです。ずっと前に読んだこの小説を何故思い出したかというと、

この中で、ノモンハン事件でのモンゴル人(本が手元にないので、あやふやです。。)の拷問の手法のあまりの凄まじい描写が、印象に残りすぎて…。皮膚をピロリと、薄く皮を剥いて行くのです。

古今東西、映画、小説問わず「拷問」は争いに付きものの様に出て来ますが、一方が何かを得る為に、他方に苦痛を合わせるという手段というのは、一番卑怯なものの様に思えます。

そうやって得て、果たして嬉しいのか?

私は、映画等又は、終戦記念日の特集などで、戦争のシーンが出て来る度に、その命の勿体なさに腹が立つのです。

歴史的に「変化が起こる時に血は流れる」とか、「人類学上ある程度の人類を減らす事が自然な摂理」とか様々な説がありますが、戦争が生み出すものって何なのでしょう。

攻撃に応戦するほうは、何故、降参しないか。自滅するとわかっても戦うのか、又、拷問にかけられて、情報を吐く人と、絶対に屈しない人…。

突然、今朝、そのことについてある答えが出ました。

そうしてまで「守りたいもの」があるのではないのか。

しかし、その「守りたいもの」が本当に価値があるかどうかの見定めは、判断が難しいですね。時間が経って気付くものもあれば、見落としていることも。。大切な岐路にある時、どちらの決断が正しかったかなど、後になってみないとわからない事もあります。

それから、被害者は加害者にもなりうる事を知らなくてはなりませんね。逆もあり得ます。

コミュニケーションをとらないという姿勢は、何事もいい結果は生み出さないのでは。

そもそも女性というのは、戦争には向いていない、戦い方というのもそれ程、知りません。

なのに、こんな考察自体的を得ていないかもしれませんが、何故か書いてみようという気になりました。

— 12:00 AM  Comments (0)