中秋の名月の前日に戴いた画像です。
今夜は、中秋の名月。
昨日であの震災から半年が経ちました。。(アメリカの9,11からは10年ですね…。)
やっと津波の被災地を少しだけれど訪れ、原発の苦しみは充分に味わって来た者として、この一週間、感慨を持って過ごしていました。
仙台のかおる先生のお言葉から、被災者の「尊厳」ということが、強烈に残っています。
石巻も女川も、短時間しか見なかった私に語る権利もないとは思いますが、写真や映像では(自分には)伝わらなかった部分を、感じて来た様に思います。
なにしろ、三陸海岸をどこまでも広範囲に、続く道。石巻で、お家は、皆とても立派なのに、一階部分は、窓ガラスはなく、中がぽっかり空いていました。
新しい家だって随分あったし、そのままそっくりを捨てなければならなかった方々を思うと、それは言葉を失うしかない程、天災の無情を感じました。
家族を亡くした方々、親御さんを亡くした子供さん達の悲しみ、そして、今現在も続いている、その地に住まれていた方々の「苦しみ」。
なにより、亡くなられたご本人は、一番無念だったとも思います。
再び、尊厳の話に戻りますが、人にお世話になるしかない…というのは、感情的に難しいものです。
本来、持ちつ持たれつである筈の事が、対価なしに、受けることしか出来ないというのは、本人が辛いものですよね。支援は非常に必要でも、自分がそういう状態でありたい立場から受け取るという、その複雑な気持ち。立場に優劣や、不公平感を感じてしまうこともあったと思います。
何をさておき、「仕事と住む場所」、これ無しに、どう尊厳を保てるか…。仕事の機会とは、この度被害が少なかった都市か、復興を遂げる力のある都市にはあるのです(><)
阪神淡路の時に、新潟中越の時に、どんな心持ちで居たかというと、正直、やはり自分の地域に関係した今回とは、全く違う…というのは、私に限った事ではないかもしれません。
原発問題での不便さにしても、他の地域の方々には、現実感としてはわからないものだと思います。遠くでは「具体的にどう大変なのか、掴めない」という言葉を結構良く耳にしました。
福島県内ですら、場所によって違いますし、その人その人の考えによって全く違います…。
私は、散々な想いで3月17日に脱出し、那須から新幹線に乗り、無様な格好で東京に着いた時、東京駅の名店街がちゃんと機能していたのに驚き、すだちを絞ってお蕎麦を食べた時、あまりにも美味しくて涙が出そうでした。
その後しばらく、何故、こんなに東京は早く立ち戻り(計画停電が大変だったとしてもです)、ここは、いつまでも原発の行き先不明瞭な闇に振り回されなくてはいけないのかと、砂を噛む様な気持ちで、平常の生活が戻って来ている場所からの情報をネットや目で見てしまうと、焦りも苛立ちも無かったと言ったら、全くの嘘になります。
藤先生からご献本頂いた、自分の教室を載せて頂いている書籍も、なかなか開けませんでした。
巷の音楽のボランティアイベントには、耳を塞ぎたい位でしたし、励ましのCMも好ましくは感じませんでした。(それより真実が欲しかったですから。)非常事態に、音楽は全く受け付けなかったですが、結果的に、その後、根っこの部分で私を支えたのものの一つは音楽だったのでしょう。
レッスンを再開した4/15の後、5月〜7月、心から祈る想いで仕事に没頭しました。
私の出来る事は、やはりピアノを通して、心からの笑顔で、生徒さん達の環境を守ることだからです。
今ある環境の中で、最大限の努力はしようと思いました。郡山の子供さん達が、ストレスを溜め込まないで、動きのある音楽をすること、震災以前の状態に近づけること、いえ、その頃よりもっともっと楽しめるレッスン構築に心を砕き、勉強だけは続けました。
次第に、幸せな気持ちが戻って来ました。
京都から戻ると、散歩が思う様に出来ないことに、身体のギャップを感じ、なんて不自由なのかと思いましたが、そういったことは、慣れと工夫でなんとかなりました。
今、心から幸せを感じて、生活しています。
そして、この震災がなかったら、味わえなかったこと、行かなかった場所、出逢わなかった方々も多く、学んだことは計り知れなく大きいです。色んな方々の、心に残る言葉…からも、指針を与えて頂いた様な気がします。
不思議な事に、最初この記事は、中秋の名月の前日も月が綺麗な夜だった…という話を書こうとしました。
昨日、他県でですが、月の綺麗な夜、古い趣きのある橋を渡りながらそれに気付き、温かい風を心地よく感じながら、水面に映えるオレンジ色のレトロな街灯の下を歩きながら、私はとても自由を感じました。
私はこういう、偶然の瞬間の様な時間が好きですが、何にも制約されていない僅かな時間は、むしろ、自由でない時間があるからこそ一層輝くのだと思います。一人の時間は、大切な誰かがいるからこそ、より輝くのと一緒ですね。
休暇の朝、一日の始まりが「今日は何をしようかな」だとしたら、それはそれで気ままで良いけれど、「いつも」だったらどうでしょう。。。でも、どんな日も大事!
昔読んだ、ワイルダーの「わが町」では、人生のハレの日ばかりが貴重なわけではなく、何気なく過ごす、ケ(褻)の日だって同じ位、素晴らしいものだというメッセージを、当たり前の日常の幸せを失いかけた経験から、くっきりと鮮明に改めて心に刻み込む今日です。
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