「夜に書いた手紙は
、朝読み返してから…」という言葉通り、夜のブログも危険です
。
ずっと書きたかった、このテーマ。

「悲嘆のプロセス」を最初に、6段階で示したのは、「死ぬ瞬間」の著者エリザベス・キュープラー=ロスです。この精神科医の女性は、人格的にもとても優れた方だったらしいですが、この方の説は、主に、亡くなる本人が、死を告知されてから味わう段階についてです。
父が亡くなった13年前に読みました。
たまたまその前年、私は上智で哲学と社会学の科目等履修生をしており、アルフォンス・デーケン先生の「人間学」の授業も受けました。その時に、「死生観」とか「悲嘆のプロセス」「グリーフ・エデュケーション(悲嘆(喪)の仕事)」についても知ったのです。
デーケン先生の「悲嘆のプロセス」は、12段階あり、主に、残された方の人に向けてのステップです。
死に限らず、喪失体験なら、例えば引っ越しでもなんでも適用出来るそうです
。とても参考になります。
その段階は端的に示されているので、ここに12個列挙するのは容易ですが、今は省きます。その訳は、この段階は、社会生活の中で役割を担う中で、中断され、進んだかと思うと、もっと酷い境地に陥る事がある事を重々感じているからです。(プロセス通りに当てはまる訳ではないという意味です。)
このプロセスが完了するには、少なくとも数年を要する様で(死別の場合かもしれませんが)、私の述べたいのは、これを甘く見てはいけない…と思う事です。
本人に取っては、惜別の思いは「切り取られた時間」となるので、生きた心地はしないでしょう。
喪失の対象によって、過去の一部が切り取られるのか、現在がなのか、未来が…など異なる様ですね。(未来だけは選択出来ますが、割り切れるかどうかは別でしょう。)
例えば、私が父との死別の時に、一番の薬となったのは、母と共に思い出話を語る事でした。それも、そんなに深刻な調子でなく、あたかもそこに居る様に。。当時は、父が出張のバッグを持って
、まるで応接間のドアから入ってくる感覚にとらわれる事がしばしばでした。母は、どちらかというと、敢えて自分からは思い出話はしたがらなかったですが…。
ただ、私は、「思い出を分かち合える」というのは、幸せなことだと思いました。
それこそが薬でした。
「喪の仕事」というのが、日本人は大変下手だそうで、大病を患った人にでも、本人が元気そうにしていると、「お元気そうで」と声をかけてしまったり、無理に気持を次に(他へ)切り替えようとしてしまったりするという話も聞きます。
しかし、私はこの「悲嘆」というのは重要なことだと思います。表面に出すかどうかは別として。
時間が解決という言葉も、全面的には当てにありません。「ピンチはチャンス」とか、「幸不幸は受け取り方次第」なんて言葉も、本人の立場に立たない限り、悲嘆に暮れている人には無意味な響きでしょう。(私が言われた訳ではないので、誤解の無き様お願い致します
下から3段落目の為に述べています。)
半月程前、私がセミナーに行った日が、両親の結婚記念日だったので、その週末に、突然母が、あるVTRを出して来ました
。
父が死の前年(死ぬなんて本人も全く思っていなかった)に、学生時代の親友4人で北海道へゴルフ旅行に行った時のものです
。1度観たきり10年位封印してありましたが、私は、父が旅先の夜に
、友人達と蟹懐石屋さんに紹介されたらしいスナックで
、石原裕次郎を熱唱しているのを
、ずっと覚えていました
。あと、ダンスしたり
。
大好きな昴も歌っていました。「悲しい酒」を歌う元市長に、(演歌特有の悲恋の台詞の箇所で)「諦めんな〜♪」と、お茶目な父らしい得意の茶々も入れていました(笑)私は、父の「夜霧よ今夜も有難う
」が好きでした。
次の日は、小樽でオルゴール館に寄った所も録画されており
、私へのお土産となった、透明のグランドピアノのオルゴールはそこで選んでもらった様です。
何故か、今頃になって、そのビデオを出して来た母の心境を思うと、涙が出そうでした。
私に取っては、もう吹っ切れた気でおり、普段は忘れていますが、やはり、父に生きていて欲しかったと思わない時はありません。特に、辛い事が続いて、父をこの記事の引き合いに出した様で、申し訳ない気もします。
最近思うのは、津波の被害などで、ご家族や大切なお友達をなくされてしまった方は、これまでの思い出を分ち合う事もままならないんだな…と。
次に来る暖かい季節を、待ち望んでいる方々は多いでしょう
。しかし、次の季節の到来を、決して嬉しく思うばかりとは限らないです。
デーケン先生の「悲嘆のプロセス」についての本はこちら。


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