ピアノ曲から歌曲への移行、そして交響曲へ〜シューマン〜
ライプツィヒ大学の法学部の学生だったシューマンが、クララの父であるピアノ教師ヴィークのもとに弟子入りし、同居しながら教えを請うたのが、1830年。それ以降、1836年頃から、クララとの結婚を邪魔されての誹謗中傷や妨害がヴィークからなされて、クララとも引き離され遠距離恋愛となっていました。
ヴィークは、ことあるごとにシューマンとクララの信頼関係を破壊しようと試みたそうです。
ヴィークとの激しい応酬は、シューマンに多大な屈辱と精神的疲労を与えるものだったと記されています。父親として富裕層と結婚させたがっていた他、手塩にかけて女流ピアニストに育てたクララを通しての自分の野望と、娘への心理的な共生関係が存在したようです。
その間、シューマンは、ピアノ曲の主なものの殆どを作曲しています。作品年表を見ると、ピアノの代表作の多くは1839年までのほぼ10年間で作曲されています。
op1のアベッグ変奏曲に始まり、op2のパピヨン、それ以降、有名なピアノ代表作品だけ挙げても、謝肉祭、ピアノソナタ第1〜3番(1番の次に3番を先に作曲)、幻想小曲集、交響的練習曲、クライスレリアーナ、幻想曲、アラベスク、花の歌、フモレスケ、ノヴェレッテ、ウイーンの謝肉祭の道化、、。
まさに主要作品ばかりで、驚異的です。
op22のト短調のソナタなどは1839年の作品ですが、苦しみのさなかにある激情が表現されています。(あの曲を書いた翌年には、愛に満ちあふれた歌曲を作曲しているのですから、人生の出来事と作品は切り離せないですね!)
ピアニストであったクララはというと、その4年間の間に、おびただしい数の演奏旅行をこなしています。二人の絆は固く、そして、芸術活動での生産性はその時期もの凄かった様です。
法律を学んだシューマンらしく、1839年6月に法的処置をとり、1840年に結婚の許可が法廷によって下りますが、ヴィークとの闘いの年月で、内面は危機的深淵まで沈まると共に、そこから立ち上がるべき力ともなったと言われています。
1840年の結婚の年を転機に、気持ちが解放に向かい、歌曲を作曲しようという気持ちになった他、文学青年でもあったシューマン(文学博士の学位も取った)の方向性と合致したのでしょう。連作歌曲集が花開きます。
ミルテの花、リーダークライス、女の愛と生涯、詩人の恋。
1840年中、歌曲の作曲に没頭したシューマンは、なんとその一年後の1841年には、交響曲の作曲へと、方向性を変えるのです。
主な参考文献:ウード・ラオホフライシュ氏(Ph.D.)著「ローベルト・シューマン 引き裂かれた精神」
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