とんぼ帰り
先週金曜日、夜から翌日早朝まで、郡山に帰っていました。
急でしたし、到着が18時過ぎていましたので、2名しかレッスンの枠を作れず、お声をかけなかった生徒さん方、ごめんなさい。
郡山に降り立つと、言いようのない懐かしさに、心が充溢します。
新幹線の下り線のホームから目前によく見える、駅前の私の生家の更地進行状況は、降りてしまうと塀がまわさりよく見えないので、皆が改札へと階段を下りていくのにさからって、一人たたずみ、よく眺めています。
次の、ホテル建設中も、また同じように眺めるのでしょう。
東京方面に戻る頃には、もう後ろを振り返ってまで眺めるということはありませんが、がやがやとした駅前の風景ごと、そのままそっくり「故郷」を感じ、他のどこよりも、強い感情が湧き上がる場所です。
生い立ちというのは、その後によくも悪くも影響を大きく残すもので、私は、そこに生まれたのでなければ(両親はとても好きだけれど)、頼もしい兄弟がいたならば、ピアノや、文学を必要としなかったかもしれないなと、長い間よく思って来ました。
それならそれで、別の職業に就き、別の生き甲斐や幸せを見い出していたでしょう。
音楽のどんな面を自分の拠り所にするかは、人それぞれだと思います。
私の場合は、コンクールでの入賞や、派手にヴィルトゥオーゾのようなピアノを弾くことに、憧れるということはないんです。
作曲家は(作家も)、大概幼い頃から理不尽な思いを抱えており、そういうものの解決を見いだそうとする手段としての表現という考え方もあります。私はそこに、「そうそう!」と共感する瞬間があり、メロディーやハーモニーの中に、憧れも諦めも一緒に味わうことが出来る、遠い異国の情緒や、自分の行ったことのない世界に行く事が出来る、そういった点に惹かれて音楽が好きな訳です。本を読むのと似ています。
ただ、作家に誰でもなれるわけではない様に、ピアノが上手くなるというのも、大変難しいことなのです。ピアノの持つ、運動的な側面や、センス、練習に耐えうる忍耐力、もともと日本のものでないクラシック音楽を、芸術として本当に理解することは、大変なことです。
幼い方達が、就学前に、ピアノでも習ってみようかな(習わせてみようかな)と、ピアノ教室の門を叩いても、進学によって、辞めることを考え出すのは、何も、学校や塾が忙しいから、専門でやってもご飯を食べるのが大変だから…だけではなく、無意識にでも、上達への限界を感じるからということもあるのではないでしょうか。
結果として、面白さがわかる前に辞めてしまうということになります。
「労多くして功少なし」だとしても受け入れて、決意して頑張れるならば、そこに一筋の光が見えるとは思います。
「少年老い易く学成り難し」という言葉は、ピアノにも当てはまります。
バブルの頃に学生だった私達の世代や、もう少し上の世代は、割合多くピアノを習い、しかも音大進学者数も多く(今の10倍)、結果としてピアノ講師も多いのですが、需要を生み出す努力より、今後のことを広い目で見て考えて行きたいです。
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