ロベルト・シューマン

ドイツ 1810年ザクゼン州ツヴィッカウ生まれ → 1856年ボン郊外エンデニヒ没

ロベルト・シューマン

小説家を志していた父は、書籍出版業を営み、シューマンは、幼い頃から沢山の小説や詩に囲まれて育ちました。
母は、歌が好きで、シューマンは時折、母を「生きている歌の本」と呼びました。

文学と音楽をこよなく愛するシューマンは、夢見がちな少年でした。

16歳の時に、姉が自殺し、それを苦にして死んでしまった父のことが、少年期に暗い影を落としました。

一家の経済を考え、法科に進んで欲しいと願う母の希望で、ライプツィヒ大学の法学部に入学します。それまでも、ギムナジウムでは、「模範的な生徒」と賞されるなど、シューマンは頭脳明晰でした。

ライプツィヒやフランクフルトで催される音楽会に啓発され、シューマンは、音楽のサークルに入ったり、音楽家になる夢を捨てきれずにいました。一方で、ジャン・パウルの文学に傾倒し、常に「法律と音楽と文学」の間で、揺れ動いていました。

18歳で、ピアノの名教師ヴィーク先生に出会い、20歳で、師のもとに住み込みで弟子入りします。ピアノの名手になる事を夢見ました。この年、作品1のアべック変奏曲を作曲します。師に認められ様と猛練習し、指を強くする為に、自分で考案した器具を使った練習法で、右の指が麻痺してしまうのです。
それ以降、作曲家に転向し、ピアノ曲の作曲に意欲を燃やします。ピアニスト志望であった自分の夢と、天才少女ピアニストであったクララに対する思慕の念が、ピアノ曲の作曲の原動力となりました。また、「音楽新報」という雑誌の発行人となり、若い音楽家(同い年のショパンや、後にはブラームスなど)を紹介したりする執筆活動も行います。

シューマンの作品には、<フロレスタン>(激しい)と<オイゼビウス>(穏やかで曲線的)という、キャラクターの対照的な楽想が表れる事がある事や、「キャラクター・ピース」が多いのも特徴の一つです。
9歳年下のクララとの間に愛情が芽生えますが、ヴィーク先生に反対され、シューマンが30歳の時に、晴れて二人は結婚します。(二人は交換日記をつけていたので、日常の詳細が残されています。)

結婚をした1840年を境に、100曲あまりに及ぶ、歌曲への集中的な作曲が行われます。(生涯の中でのリート作品は246曲。)二人の間には、次々と8人もの子供が誕生しますが、家計は苦しくなるばかりで、クララは子育てをしながら、国内外で名高い女流ピアニストとしての演奏活動をして、暮らしを支えます。しかし、ロシアなどのクララの演奏旅行先で、シューマンは影になることが耐えられませんでした。

1841年に、シューマンは交響曲の作曲を始め、生涯に4曲の交響曲を残します。次第に健康を損ねたシューマンは、44歳の時、ライン河に身を投げ、自殺未遂をしますが、漁師に助けられ、その後は精神病院に入れられてしまいます。

46歳でこの世を去りますが、その後、40年間、クララは生き、シューマンが生前目をかけていたブラームスに支えられたりしながら、夫の作品を世に広めました。しかし、精神病院での2年半は訪れなかったそうです。二人の遺骸は、ボン郊外の墓地に葬られています。       

シューマンの主要作品リスト

(ピアノ曲と(空欄もピアノ曲です)、1840年の連作歌曲、4曲の交響曲を中心に)

…ピアノ曲  …歌曲  …交響曲  …ピアノ関連 他ジャンル

op1 アベック変奏曲 1829/30
op2 パピヨン(蝶々) 1829/31
op3 ピアノのために(3曲)
op4  
op5  
op6 ダヴィット同盟舞曲集(18曲)1837
op7 トッカータハ長調 1829/32
op8 アレグロ ロ短調 1831
op9 謝肉祭(21曲)1834/35
op10  
op11 ソナタ第1番 嬰へ短調 1832/35
op12 幻想小曲集(8曲)1837/38
op13 交響的練習曲 1834/37
op14 ソナタ第3番へ短調 1835/36
op15 子供の情景(13曲)1838
op16 クライスレリアーナ1838
op17 幻想曲 1836/38
op18 アラベスクハ長調 1836/38
op19 花の曲変ニ長調 1839
op20 フモレスケ変ロ長調 1839
op21 ノヴェレッテン(8曲)1838
op22 ソナタ第2番ト短調 1833/35
op23 夜曲 1839
op24 リーダークライス 1840年(結婚の年)2月
op25 ミルテの花(26曲)1840
op26 ウイーンの謝肉祭騒ぎ(5曲)1839
op39 リーダークライス (12曲)1840年5〜6月
op42 女の愛と生涯(8曲)1840
op48 詩人の恋(16曲)1840
op38 交響曲第1番変ロ長調[春] 1841
op44 ピアノ五重奏曲 変ホ長調 1842
op54 ピアノ協奏曲イ短調 1841/45
op61 交響曲第2番ハ長調 1845/46
op97 交響曲第3番変ホ長調[ライン] 1850
op111 幻想小曲集(3曲)1851
op120 交響曲第4番 ニ短調 1841

シューマンとクララのこぼれ話〜ヴィークの妨害〜

ライプツィヒ大学の法学部の学生だったシューマンが、クララの父であるピアノ教師ヴィークのもとに弟子入りし、同居しながら教えを請うたのが、1830年。それ以降、1836年頃から、クララとの結婚を邪魔されての誹謗中傷や妨害がヴィークからなされて、クララとも引き離され遠距離恋愛となっていました。シューマンの、クララに対する愛情は一途なものでした。
ヴィークは、ことあるごとにシューマンとクララの信頼関係を破壊しようと試みたそうです。
ヴィークとの激しい応酬は、シューマンに多大な屈辱と精神的疲労を与えるものだったと記されています。父親として富裕層と結婚させたがっていた他、手塩にかけて女流ピアニストに育てたクララを通しての自分の野望と、娘への心理的な共生関係が存在したようです。
その間、シューマンは、ピアノ曲の主なものの殆どを作曲しています。作品年表を見ると、ピアノの代表作の多くは1839年までのほぼ10年間で作曲されています。(作品リスト参照)
まさに主要作品ばかりで、驚異的です。
op22のト短調のソナタなどは1839年の作品ですが、苦しみのさなかにある激情が表現されています。(あの曲を書いた翌年には、愛に満ちあふれた歌曲を作曲しているのですから、人生の出来事と作品は切り離せないですね!)
ピアニストであったクララはというと、その4年間の間に、おびただしい数の演奏旅行をこなしています。二人の絆は固く、そして、芸術活動での生産性はその時期もの凄かった様です。
法律を学んだシューマンらしく、1839年6月に法的処置をとり、1840年に結婚の許可が法廷によって下りますが、ヴィークとの闘いの年月で、内面は危機的深淵まで沈まると共に、そこから立ち上がるべき力ともなったと言われています。
1840年の結婚の年を転機に、気持ちが解放に向かい、歌曲を作曲しようという気持ちになった他、文学青年でもあったシューマン(文学博士の学位も取った)の方向性と合致したのでしょう。連作歌曲集が花開きます。
1840年中、歌曲の作曲に没頭したシューマンは、なんとその一年後の1841年には、交響曲の作曲へと、方向性を変えるのです。(翌年、1842年は、室内楽の年と呼ばれています。)彼には、ジャンルを一定の時期に集中する作曲の傾向がありました。

参考文献

  • 前田昭雄、藤本一子 他著「作曲家別 名曲解説ライブラリー シューマン」音楽之友社 1995年
  • ウード・ラオホフライシュ著 井上節子訳「ローベルト・シューマン引き裂かれた精神」音楽之友社1995年
  • M・ブリオン著 高派 秋 訳 「愛と死の音楽 西欧ロマン派の心」ジャン・ジャック書房
  • 萩谷由喜子「ひとり5分で読める作曲家おもしろ雑学事典」ヤマハ・ミュージックメディア2006年
  • 学研音楽マンガシリーズ「伝記世界の大作曲家15人の偉人伝」学研1992年