ヨハン・セバスチャン・バッハ

1685.アイゼナッハ → 1750.ライプツィヒ 65歳

ヨハン・セバスチャン・バッハ

1685年、(日本では江戸時代の頃)ドイツに生まれる。

ドイツに限らず、ヨーロッパ諸国では、教会が大変な権力を持っていた。人々も又、キリスト教を信仰することが、一般的であった。それゆえ、ミサに欠かせない少年合唱隊や伴奏するパイプオルガンの演奏者は、大切な役割を果たした。この頃、職業というのは、自分で好きに選べるものではなく、家業を継ぐという世襲制だった。バッハの一族は、音楽家の家系であった。その中でもバッハには、抜きん出た才能があり、ものすごい勤勉さで、生涯に膨大な数のすばらしい作品を生み出した。

教会のオルガニスト(それも段々に大きな由緒ある教会の)地位や宮廷楽団の楽長として活躍した。オルガニストというのは。弾くだけでなく、ミサなどで使う曲を自分で作曲しなければならない。バッハは即興性にも優れていた。
ライプツィヒでは、聖トーマス教会のトーマス・カントル(音楽教師兼音楽監督)に就任する。
バッハのキャリアは、ワイマール時代(教会オルガニストの時期)、ケーテン時代(宮廷楽長・世俗の時期)、ライプツィヒ時代(宗教的な深まりの時期)に分かれている。 バッハの時代は、メロディーと伴奏という『ホモフォニー』と呼ばれる音楽ではなく、『ポリフォニー』(多声部音楽)という、どちらも旋律が横に流れる音楽であった。

子供の頃両親を亡くしたバッハは、その後、年長の兄に面倒をみてもらうが、彼の持っていた沢山の楽譜を、こっそり夜中に写し採って叱られる。バッハの長兄は、パッヘルベルの弟子であった為、貴重な楽譜を所有していた。兄に隠れて、月明かりの中で写譜をした無理がたたり、晩年目が悪くなり、最晩年では失明に至る。
15歳頃から自立したバッハは、22歳で最初の妻マリア・バルバラと結婚する。バッハは、金銭的な管理については非常に細かかったと言われている。彼女は早くに亡くなったため、子供を沢山抱えたバッハは、独身期間があまり長くてはいけない当時の風習もあり後妻を迎えるが、2人の奥さんの間には20人の子どもをもうけた。その中で、長男フリーデマンと、次男のエマヌエル、そして末息子のヨハン・クリスティアンは後に作曲家として有名になる。才能の普通の子供もみんな男の子は音楽家になった。この子供達の練習用に教育的な愛情をもって作曲されたのが、アンナ・マグダレーナの為のクラヴーア小曲集(二度目の奥さんの名がついている)と、インベンションとシンフォニアである。

1オクターヴを(半音も入れて)12等分に分ける調律法、<平均率>を考え出したのはバッハである。「平均率クラヴィーア曲集」は、1、2巻とも24曲あり、それぞれ24の調が、1番のハ長調から始まり順番に出て来る。全ての調で書かれているのである。これは、こんにち、音楽の旧約聖書と呼ばれ音楽史上、大変重要な曲集である。

時代的にハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは古典派であるが、それより前のバロック時代の作曲家であり、バッハがその後に与えた影響の偉大さから、音楽の父といわれるにいたる。

しかし、死後は、急速に忘れ去られ、バッハの音楽の復興に尽力したロマン派のメンデルスゾーンによって、「マタイ受難曲」のベルリン公演が成されるまでの間、約80年も待たなくてはならないのである。