フランツ・ペーター・シューベルト

フランツ・ペーター・シューベルト (1797年1月31日ウィーン生 – 1828年11月19日ウィーン没)

フランツ・シューベルト

フランツ・シューベルト

孤独なさすらい人

31歳の生涯をウィーンで過ごしたシューベルトですが、生まれながらにして「さすらい人」でした。
父の代からウィーンへ移り住み、母は、父より6歳年上でした。
14人の子どもの内9人亡くなったので、シューベルトは5人兄弟として育ちました。次兄と仲が良かったようです。
シューベルトは、6歳で父親の赤字経営の学校に入学します。

聖歌隊で活躍する少年期

子どもの頃は、時々家族で音楽を楽しみました。
11歳 ウィーンの宮廷礼拝堂聖歌隊に入り、
16歳までのコンヴィクト(帝政寄宿制学校で、ウィーン少年合唱団の前身)時代は、
内向的で精神的かつ心情的な性質で、微笑みをよく浮かべる生徒でした。
争いや悪口に加わらず、もの静かで落ち着いた態度で、先生やクラスメイトから愛される人柄だったといいます。
15歳から、宮廷楽長 のサリエリに師事します。
その頃、母が腸チフスに罹り、55歳で亡くなります。

小学校教員の道から、芸術を志す

16歳の時、変声期で合唱団にいられなくなり17歳 師範学校で助教員の免許を取る勉強をして、17歳には、父のもとで補助教員を務めます。
☆その頃、1814年〜1815年のウィーンでは、有名なウィーン会議が開かれました。
18歳で、父の学校で正教員として採用され、低学年を受け持ちます。この頃、親友となるショーバーと知り合います。
200曲余の作品を生み出す豊作の年。3日に2曲の割合で作曲をします。この内70%以上(145曲)は歌曲で、「歌曲の王」といわれる基盤を作ります。「野ばら」を含め、ゲーテの詩によるものが多くありました。
19歳では、師範学校教員に応募するも不採用。父の学校を休職し「子守歌」「交響曲第4番「悲劇的」」また、モーツァルトの影響からヴァイオリン曲も集中的に作曲します。

後世に有名な手記として残る「日記」をつけ始めるのも、この頃です。
自作の曲のなかには、「さすらい人」をモティーフとして定着。「魔王」を作曲します。

転換の年

20歳で友人ショーバーに促され家を出て、友人宅に居候する気楽な生活がはじまります。
作曲は、前年の半分に減ったものの、質が向上していきます。
シューベルトは、他界するまで11年間に16回、住居を変えており、一人で暮らしたのはわずか3回だそうです。
とは言っても、仲間と過ごして、そのまま友人宅に泊まり込み、眼鏡をかけたまま寝る(目が覚めたらすぐ仕事にかかれるように!)。
支払いは「あるもの払い」で服も着回し、「個人所有」という観念が、あまりなかったのだそうです。
想像力の一番豊かな朝からお昼過ぎまでを作曲にあてることを、厳格に守っていました。

音楽への感謝・愛情を謳った、歌曲「楽に寄す」は、
友人ショーバー(84歳没、スウェーデン人、裕福・教養の持ち主、実業家)の詩につけたものです。
「日常的世界の現実の時間は、灰色の時間だ。
音楽という優しい芸術は、この灰色の時間から私を救いあげ、
心を温かい愛に燃え上がらせ、
より良い世界をひらいてくれる」と、
シューベルトの仲間たちの生活美学であり、芸術への美しい祈りにも似た感謝を捧げています。
「死と乙女」「ます」「ガニメード」「ピアノソナタ」7曲を作曲します。

仲間との充実した「シューベルティアーデ」

21歳 初めての出版、初めての職:エステルハージー家の臨時職員(二人の伯爵令嬢の音楽家庭教師)として別荘へ赴きます。
24歳 最初の「シューベルティアーデ」が、友人の間で開催され、新作発表の場となります。
作品1 「魔王」出版。
25歳 梅毒で体調を崩します。(1823年 5月〜7月入院)
有名な散文「*わたしの夢」を書く。父親に対する根深いコンプレックス。彼の本質が描かれています。
26歳「魔王」の大当たりで収入に結びつくも、著作権を安く売ってしまいます。
27歳 体調回復。
28歳 ピアノソナタの新展開。
28歳〜29歳 毎週定期的に「シューベルティアーデ」開催
29歳 宮廷副楽長へ応募(不採用)。
30歳 敬愛してやまないベートーヴェンを見舞います。唯一の接触となります。
オーストリア帝国楽友協会(ウィーン楽友協会)から正式に幹部会員として選出されます。
連作歌曲「冬の旅」で、「私がこれから歩む道は、誰も帰って来たことのない道なのだ」(詩:ミュラー)
さすらい、悲しみ、憧れがうたわれています。

31歳 生涯でただ一度のシューベルト作品による演奏会の開催。
ミサ曲変ホ長調を作曲します。
収益金で、新たなピアノ1台を買い、溜まっていた借金を返します。パガニーニの演奏会を2度聴きにいったりもしています。

尊敬するベートーヴェンの隣に眠る

9月(死の3ヶ月前)に静養のため、兄の家に身を寄せ、最期の偉大な3つのピアノソナタを作曲します。
連作歌曲「白鳥の歌」を作曲します。レルシュタープ、ハイネ、ザイドルの3人の詩によるもの。
死の2週間前に宮廷オルガニストでウィーン音楽院の教授であるシモン・ゼヒターを訪れ、理論と対位法のレッスンを依頼しています。

腸チフスで逝去。
「ここだ、ここが僕の終わりなんだ」
兄の計らいにより、ヴェーリング墓地で、ベートーヴェンの数メートル横に葬られました。
1888年、両者の遺体は中央墓地に移されました。二人の楽聖達は、仲良く隣同士で永遠の眠りについています。

参考文献

  • 喜多尾道冬著「シューベルト」朝日選書 1997年
  • オットー・エーリヒ・ドイッチュ編、賓吉晴夫訳「シューベルトの手紙」メタモル出版
  • 前田昭雄著「フランツ・シューベルト」春秋社