クロード・アシル・ドビュッシー

フランス 1862年サン・ジェルマン・アン・レー生まれ → 1918年パリ没

ドビュッシーは、19世紀末から第一次世界大戦終了までの時期に、独創的な作曲技法を生み出しました。

小学校に通えなかった幼年期

父は、パリ近郊のサン・ジェルマン・アン・レーで、瀬戸物の小売り商でしたが、商売はうまく行かず、いくつかの職や住居を転々とします。この頃パリは、「普仏戦争」「パリ包囲」と、社会情勢が穏やかではありませんでした。長男であるドビュッシーが9歳の時、生活苦にあえぐ市民が「パリ・コミューン」という革命運動を起こし、ドビュッシーの父親はそれに参加し、投獄された時期もあります。このことは幼少期のドビュッシーに深い影を落としました。

パリ音楽院での少年期

少年達が、お小遣いを握りしめて、安くて量のあるお菓子を選んでいる時に、ドビュッシーは、最上等のお菓子をほんの少し買うような、貴族趣味を持っていました。風変わりで夢想癖のある子供だった様です。

一家の暮らし向きは良くはなく、マダム・モーテ・ド・フルールヴィルという優れたピアニストが、ふとしたことからドビュッシーの才能を見抜き、無償でピアノのレッスンを受けれる様になります。その指導の甲斐あって、その一年後の1872年には、わずか10歳でパリ音楽院に入学します。157人の応募者のうち入学出来たのは、39人。うち男は8人でした。

ドビュッシーの生家 現在1階はオフィス・ド・ツーリズムで、2階が博物館

ドビュッシーの生家 現在1階はオフィス・ド・ツーリズムで、2階が博物館

ピアノのマルモンテル先生のクラスでは、独特の個性を見せ始め、ソルフェージュの先生にも「彼の耳と、音楽に対する感受性は並外れている」と評価され、二等メダルを経て、半年後には、一等のメダルを取っています。翌年のピアノの試験では、シューマンのソナタを弾いて二等賞を取りました。その後、和声法やピアノ伴奏法(一等賞)のクラスに入り、最後には作曲法のクラスへと進級し、まさに12年も、この音楽院に在籍する事となるのです。

友達間の評判では、「無愛想と言っていい程の無口」な人だったそうです。

上流社会や文壇とのつながり〜青年期〜

クロード・アシル・ドビュッシー

学生をしながら自分で学費を稼ぐために働くのですが、ピアノの腕前のおかげで、上流家庭のお抱えピアノ弾きのアルバイトを得ました。17歳の夏休みには、ロワール河流域のシュノンソーに住み込みます。次の年からの3年間は、夏休みの度に、チャイコフスキーのパトロンでもあった、ロシアの大富豪マダム・フォン・メックの家族や召使いと共に、ピアニストとして、スイス、イタリア、ロシアなどの旅行に参列します。

チャイコフスキーの音楽はもちろん、ロシアの作曲家ボロディンや、ジプシーの音楽にも、この旅行のおかげで親しんだと言われています。同じ頃、上流婦人の声楽の集まりで伴奏ピアニストをした時に知り合った若く美しいマダム・ヴァニエ(ソプラノ歌手)からも声がかかり、夫人は、小学校も出ていないドビュッシーを、家に招き、沢山の詩や文学作品に触れさせました。ドビュッシーは、夢中になって読みふけりました。

音楽院を卒業した1884年に、カンタータ「放蕩息子」で、ローマ大賞第一席を取ったドビュッシーは、ローマへの留学が義務付けられますが、ヴィラ・メディチでの集団生活が性に合わなかったのか、ぎりぎりの2年間でパリに逃げ帰ります。パリに帰ったドビュッシーは、印象派の絵画や、象徴詩人マラルメなどの詩に心が動かされ、ピエール・ルイスと親交を結び、マラルメの火曜会など文学者の集まりへ、顔を出す様になります。有名なこの集まりも、音楽家はただひとりでした。学生時代は、ワーグナーに傾倒していたドビュッシーも、次第に仰々しい音楽に反発し、離れ始めます。

マラルメの「牧神の午後」のテキストを読んだドビュッシーは、詩から受けたイメージを音楽にし、1894年に、オーケストラ作品として「牧神の午後への前奏曲」とし、国民音楽協会で初演され、一躍有名になります。また10年がかりで、メーテルリンクの戯曲を元に、オペラ「ペレアスとメリザンド」を作曲し、絶賛されます。その後も、エドガー・ポーのオカルト趣味の小説から交響曲を書いたりと、文学を愛するドビュッシーは、テキストと音楽の一体化を図ろうとしました。

独創性を確立する中年期

結婚は2回、1899年からの六年間と、1908年(1904年から一緒に住む)からの富裕な銀行家夫人であったエンマ・バルダックとの結婚で、この2つの結婚の間に色々ともめ事があり、ピストル自殺を図った最初の妻リリーに同情し、友人達が離れていくといった事もありました。

ドビュッシーは、「睡蓮」を描いた画家のモネなど「印象派」と呼ばれる画家と同時代に生き、彼の音楽は「印象派」と言われます。

1889年にパリで開かれた万国博覧会で、インドのガムラン音楽やジャワの音楽を聴いたドビュッシーは、形式の自由さ、リズムの斬新さ、打楽器の効果、ヨーロッパ音楽にはみられない和声を聴き、強い感銘と影響を受けます。従来の和音の規則にとらわれず、五音音階や全音音階などを取り入ます。半音階、古代旋法、重ねられた音など、自由で斬新な和声の使用で、新しい音楽を作り出しました。

とりわけ、自然に対する関心の強さが見られ、海や風、森、水などを音楽で描写しました。これは、彼の生家のある場所が、ルイ14世の設計した大きなパークがあり自然に囲まれていた幼年時代とも無関係ではないでしょう。又、魚、妖精、ギリシャの女神、場所など、一枚の写真を撮る様に、音楽に表したことが重要な特徴です。

ドビュッシー自身の演奏は、今でもピアノ・ロール(紙の録音法)での録音が残っていますが、他の人とは違う、優れた音感覚を持っていた様で、音の響きが美しく、ピアノが上手です。

晩年

1918年、ドビュッシーは、直腸がんで亡くなります。その翌年、エンマとの一人娘であるシュウシュウ(愛称)も、わずか13歳で亡くなりました。

ドビュッシーの主要ピアノ作品

1888年 2つのアラベスク
1890年

ベルガマスク組曲

ダンス

1901年 ピアノのために(3曲)
1903年 版画(3曲)
1904年

仮面

喜びの島

1905年 映像第1集(3曲)
1907年 映像第2集(3曲)
1908年 子供の領分(6曲)
1909年 小さな黒人
1910年

12の前奏曲第1集

レントよりおそく

1913年 12の前奏曲集第2集
1915年

12の練習曲

白と黒で(連弾・3曲)

参考文献

  • 平島正郎、村井典子 他著 「作曲家別 名曲解説ライブラリー ドビュッシー」音楽之友社1993年
  • E・ロバート・シュミッツ著 大場哉子訳「ドビュッシーのピアノ作品」全音1984年
  • 青柳いづみこ著 「ドビュッシー 想念のエクトプラズム」東京書籍1997年
  • 萩谷由喜子著 「ひとり5分で読める作曲家おもしろ雑学事典」ヤマハミュージックメディア2006年
  • 学研 音楽マンガシリーズ「伝記世界の大作曲家15人の偉人伝」学研1992年