1770年 ボン → 1827年 <57歳没> ウイーン
ベートーヴェンは、音楽史上「新約聖書」と呼ばれる32曲のピアノソナタを作曲し、「ソナタ形式」を発展・確立させました。
交響曲(9曲)の分野でも、力強くダイナミクスに富み、独創性溢れる作品を世に残す偉業を成し遂げました。演奏時間も、それまでの 古典派の巨匠モーツアルトやハイドンを遥かに越えるもので、従来は、歌劇場でしか使用されていなかったトロンボーンや、ピッコロ、コ ントラファゴットを使用したりもしました。
作品番号を自分で付け始めた最初の作曲家でもあります。作品制作順にop(オーパス)何番と付けられ、また、作品番号のないものに はWoOが付けられています。
この時代は、長く続いた特権階級であった王侯貴族の権力が次第に弱まり始め、「市民」に力が生まれた、社会の大変革期でもありま す。
公の場でのかつらの着用は、本来まだしなければならなかったのですが、従属を嫌う頑固なベートーヴェンは、かつらを被ろうとせず、肖 像画でも、ぼさぼさ髪で描かれています。
音楽家にとって致命的である、「難聴」と闘いながらも、「苦悩との闘争を経て、勝利と歓喜にいたる」という信念を持ち続け、更なる 芸術的な高みへと昇りつめました。
ボンでの生い立ち
ベートーヴェンは、1770年12月16日にドイツのボンで生まれました。(ボンは,1990年まで,西独の首都)
同名の祖父は、立派な宮廷楽長の職に就き尊敬を集めていましたが、父ヨハンは、宮廷テノール歌手で、大酒飲みのアルコール中毒でした。これは祖母の影響に因るものです。
父は、息子より14歳年上の有名なモーツアルトの噂を聞き、ベートーヴェンを、第二のモーツアルトに仕立て上げようという夢と野心を持ちました。
厳しい音楽訓練を強いる割には、モーツアルトの父親ほどの才覚は無かったため、息子を神童として世に知らしめることは出来ませんでした。
11歳の頃より、偉大な影響を与えた優れた良い師、ネーフェのレッスンからは、貴重な教えを受けました。温かい心の持ち主の師ネーフェは、彼の天分を見抜いており、自分の好みを押し付けることもなく、ベートーヴェンを伸ばしました。バッハの「平均率ク ラヴィーア曲集」やモーツアルトの作品を勉強しました。
この時期のドイツでは啓蒙主義の理念があり、ネーフェは、倫理的にも優れた人間でした。
後に、「自分が将来偉くなるようなことがあれば、それはまったく先生のおかげです。」とベートーヴェンは述べています。
母の死以降、父のアル中は益々ひどくなり、仕事上でも駄目になっていったので、ベートーヴェンは、父に代わって、早くから宮廷楽団員として(オルガンやヴィオラ奏者として)お給料を貰い、わずか16歳で、一家の経済的な担い手として、2人の弟達の面倒 をみなければなりませんでした。
ベートーヴェンは、第2子でしたが、長男がすぐに亡くなっていた為、長男の役割をしなければならなかったのです。
ろくに学校も出させて貰えず、すさんだ家庭で父の暴力に怯えていた少年期を送りました。
後に、短気で癇癪な面が明確になるのは、耳の病のせいだけではなく、乱暴な父親の影響もあるかもしれません。
一家5人(母の死以降は4人)の生計が重くのしかかるベートーヴェンの肩には、自立心と責任感も否応無しに負う事となり、そうした 環境は、ベートーヴェンの才能を磨き不屈の精神を育みました。
自由・平等・博愛の時代の幕開け
この時代は、長く続いた特権階級であった王侯貴族の権力が次第に弱まり始め、「市民」に力が生まれた時代でもあります。
「自由・平等・博愛」のフランス革命精神がこの時代のキーワードです。
1789年は、フランス革命、バスティーユ襲撃、アメリカ合衆国の建国などありました。ナポレオンの各地への遠征によっても、ヨー ロッパ中に、このスローガンが広まりつつありました。
「最大多数の最大幸福」のジャン・ジャック・ルソーらの啓蒙思想が、人々の心の支えとなっていました。
こうした時代の精神は、後に「第九交響曲」に表れる、人類愛の精神へと導かれます。
実際、ベートーヴェンは、詩人シラーの「歓喜に寄す」から曲を作ろうと思い立ったのは、18歳頃だったそうです。また、哲 学者カントの思想がカフェなどでも盛んに談義された時代でもありました。
1792年には、フランス国王ルイ16世が投獄され、翌年、王妃マリー・アントワネットも断頭台での処刑を受けるという変革的な時 期でした。
パトロンに囲まれての順調な滑り出し(ベートーヴェンの処世術)
父が働かないので貧しかったけれど、音楽の才に優れたベートーヴェンには、貴族のパトロン(スポンサー)が多く支持してくれた為、 教養を身につけたり、音楽の道を開くのを協力する方々に恵まれました。
22歳頃に一度ウイーンへ行った際、ベートーヴェンは、晩年のモーツアルトに面会し、才能を認めてもらう言葉も受けました。
隣国でフランス革命が起きていた1789年には、ボン大学の哲学科の聴講生として学んでいました。
生涯、貴族や自分の支持者の気をそらさず、支援者を保ち続け、時流を見計りながら、収入につながる作品を書き続けました。まさに機 を見るに敏、時代を見て、需要に応え続けるビジネスマンとしての手腕にも優れていたといえるでしょう。
ベートーヴェンのボン時代は、皇帝ヨーゼフ2世の弟マクシミリアン・フランツ選帝侯の治世でした。
貴族のブロイニング侯爵、ワルトシュタイン伯爵らがパトロンになり、彼らの夫人もまた、ベートーヴェンの面倒をみてくれました。
後ろ盾の貴族達の力を借りて、ウイーン行きを決行しますが、到着して2ヶ月も経たないうちに、父が亡くなった事を知らせられます。
音楽で身を立てるべく、ウイーンへ
ベートーヴェンは22歳で音楽の都ウイーンに出て、まずは、ピアニストとしてスタートを切りました。
ピアニストとしての自信と野心に満ちた、彼のヴィルトゥオーゾ的な魅力に惹かれた、ウイーンの貴族社会で受け入れられ、彼の名声 は、次第に高まって行きました。作曲の方面でも、「悲愴ソナタ」の出版などで人気が出て、出版社が競って彼の作品を手に入 れようとしました。即興の才もありました。
ウイーンでも、リヒノフスキー侯爵を筆頭に、ラズモフスキー伯、他多数のパトロンに手厚く庇護されました。(この方達は、後に、「年 金」を与えてくれるなどもしました。)
貴族のステイタスに取っても、重要な芸術家のパトロンとなることが、大事なことだったのです。
ベートーヴェンは、経済や立場の安定のために、パトロンの貴族へ作品を「献呈」しますが、実際は、隷属させられるのを拒み、自立心 を持ちたがる面も合った様です。
ハンガリーの貴族エステルハージー家での勤務を終えたハイドンに3年間師事することとなります。
ハイドンからは、古典ソナタ形式、主題の展開、調性、音量の対比など学びましたが、彼は「ハイドンからは何も学ばなかった」と認め 様とせず、それまでの作曲家には無い、独創性を打ち出しました。しかし、多くの影響が初期の作風から伺えます。
32曲のピアノ・ソナタ
[新約聖書]と呼ばれるピアノ・ソナタは、3つの時期に分かれています。
従来の古典派のピアノソナタの形式を脱却すべく、他の作曲家がやらない様なアイディア溢れる実験が繰り広げられています。
☆初期☆ 1〜11番( 25〜30歳頃)
華やかな演奏効果のある作風に、輝かしいピアニスト・作曲家としての将来への野心と、生き生きとした青年ベートーヴェンが浮かび上がります。
☆中期☆ 12〜18番(31 〜32歳)、21〜27番(39〜44歳)の過度期含む
耳の異常を自覚し、悩み苦しんだ後、精力的に次々と新たな作曲上の可能性を追求して行きます。
☆後期☆ 28番〜32番 (46〜52歳)
苦手だった対位法を習得し、宗教的で精神的な深みのある境地に昇りつめます。
貴族への献呈の状況を、以下に記します。
ピアノソナタ1番〜3番 師であったハイドンへ
4番 ケグレヴィックス伯爵令嬢
5番〜7番 ブローネ伯爵夫人
8番[悲愴] リヒノフスキー侯爵
9番〜10番 ブラウン男爵夫人
11番 ブローネ伯爵
12番 リヒノフスキー侯爵
13番 リヒテンシュタイン侯爵夫人
14番[月光] ジュリエッタ・グィチャルディー嬢
15番[田園] ゾンネンフェルス氏
16番〜20番 なし
21番[ワルトシュタイン] 同名の伯爵へ
22番 なし
23番[熱情] ブルンスヴィック伯爵
24番 テレーゼ フォン ブルンスヴィック伯爵夫人
25番 なし
26番[告別] ルドルフ大公
27番 モーリッツ・リヒノフスキー侯爵
28番 エルトマン男爵夫人
29番 ルドルフ大公
30番 マクシミリアーネ・ブレンターノ嬢
31番 アントニア・ブレンターノ夫人
32番[ハンマークラヴィーア] ルドルフ大公
中期に、作品の献呈をしていない時期がありますね。独立心を意味するのでしょうか。
ベートーヴェンには、人生の折々に作曲を休止する時期、というのがあり、又、ピアノ曲に限った話ではありませんが、ひとつのジャン ルで最高のものを作ると、別のジャンルへと移る傾向がみられます。
この頃、ピアノの楽器は次々と改良を重ねられ、世に出ていました。楽器商が次々とベートーヴェンに新しい楽器を贈ったので、ダ イナミックに改良を重ねたピアノで、新たな試みを展開することが出来ました。それまでの貴族のサロン用のピアノから、大 ホールで弾かれる為の、より大きな音量や音域、豊かな表現がしやすいメカニックに変わっていったのです。
風貌や日常
背が低く、ずんぐりとした筋肉質の体型、がっしりした肩幅で、肌は浅黒く、黒髪、四角い顔に割れたあご、団子鼻、お世辞にもハンサム とは言えない容姿だったそうです。髪はぼさぼさでヒゲを剃るのも面倒がり、身なりがだらしない事もあったといいます。「野人」と いうあだ名をつけられていた頃もありました。
79回も引っ越しする程の引っ越し魔で、何度もお手伝いさんを変えています。あまり清潔を好まず、何日も同じ服を来ている事もあっ た様ですが、当時としては珍しい独身だったのですから、仕方ないのかもしれません。しかし、警察から浮浪者と間違われたこ ともある様です。
自然が好きで、何時間も散歩するのが日課でした。
メトロノームの発明者メルツェルは、ベートーヴェンの為に、ラッパ型など色々な形の補聴器を考案してくれました。次第にそれも困難 になって行くと、会話帳による筆談でコミュニケーションをとりました。しばらくは難聴を隠していたとのことで、進行してからは、猜 疑心が強くなったり、人との間にますます壁を作る様になって行きました。
耳の病気は左耳から始まり、ブンブン、ザーザーという耳鳴りに常に悩まされていました。
弟子の中には、練習曲をたくさん後世に残したカール・ツェルニーがいます。1800年に、9歳で入門しています。
貴族のお嬢さんや夫人達にも教えており、その中から憧れる女性が何人かいたようです。
1802年〜「ハイリゲンシュタットの遺書」〜
1802年、耳の難聴の兆しがはっきりし、療養に出かけたベートーヴェンが、絶望の淵においこまれた気持ちで2人の弟に宛てて書いたものですが、投函はされませんでした。この遺書は、彼の死後発見されました。
内容は、6年間も耳の治療に苦しみ、耳のことを人に隠しているため、人づきあいの悪い偏屈な奴と誤解された苦悩や屈辱などが綴られています。しかし、芸術が自分を連れ戻し、自分に課された創造をやり遂げるまでは、この世から去れない…というものです。
本来は、意外と人間好きな面があった様で、気質的には、楽観的な要素も前向きな所もあったそうです。
ウイーンでせっかく名声を手に入れ、これからという時期に、音楽家に取って致命傷である耳の病気の悪化と、それに因る人間的孤立… 「何故、自分ばかりが…」。この遺書は、生涯の最大の危機を意味しています。
しかし、持ち前の徳性を発揮し、自分の高い任務のため励もうという強い信念を意識し、これを契機にして立ち上がり、傑作 の森と呼ばれる作品群を生み出すに至ります。
聴覚は次第に衰えても、彼の中では音楽が鳴っていたのです。
ナポレオンとベートーヴェン
結局、献呈しようと「ボナパルト」と名を冠していた表紙は破り捨て、「ある英雄の思い出のために」と記し直して、出版されました。
ナポレオンが低い身分から出発して、高い地位に登りつめた偉大さに、自らを重ね合わせていたのかもしれませんし、王党派 を倒したナポレオンの、権力を批判し人間の権利を守る精神に、共感したのかもしれません。
この時代「英雄」の存在は人々の不安な心に希望を放つ光としての価値をもっていました。その英雄が、まさにウイーンを攻 撃しているという政治情勢が、実は、「英雄交響曲」の献呈を却下した、大きな要因となったようです。
オーストリア当局やパトロンを怒らせていしまう訳にはいかなかったのです。
しかしながら、ウイーンは12年間もナポレオンの支配化という状況の中で、彼の英雄ぶりを讃えていたベートーヴェンは、や はり独自の意思を持っていた様です。
1812年ーゲーテとの邂逅と、不滅の恋人への手紙ー
1812年夏に、63歳のゲーテと42歳のベートーヴェンは、湯治目的のボヘミア旅行の際にテプリッツで世紀の出逢いをしました。 ゲーテは、彼の不遜な態度の中にただならぬものを感じて、大変興味を持ったと言われています。
二人が腕を組んで散歩していたある日、向こうから皇族がやって来たときのこと、ゲーテは、帽子をとって道の脇に控えましたが、ベー トーヴェンの方は、皇族をもろともせずに、真ん中を通り抜け、自分から挨拶しようとしなかった、という有名なエピソードが あります。
生涯独身だったベートーヴェンは、ジュリエッタ・グィチャルディーや、テレーゼ・ブルンスヴィックら貴族の令嬢や夫人達に憧れ、つ ながりを持ちましたが、その中の、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックとアントニア・ブレンターノと特に関係が深まりました。
1812年7月6日と7日に書かれた、情熱的な「不滅の恋人への手紙」は、誰に宛てたか特定出来ないため、その後研究者達の間で色 々な説が出ましたが、アントニア・ブレンターノに宛てて書かれたという説が有力です。
又、ヨゼフィーネの為には、晩年のお金がない時期も、経済的援助をしたそうです。
甥のカールの問題
弟が結核で亡くなった為、ベートーヴェンは、甥のカールを養子にしたいとなり、義妹と親権をめぐっての訴訟が5年も続きます。
カールの母を中傷したり色々な策を試みたりしてやっと手にした念願の親権ですが、当のカールは伯父の愛情を重荷に感じ、母親のもとに 逃げ出したりもします。カールのやんちゃぶりや非行、ピストル自殺未遂に悩まされながらも、甥を溺愛し、死後は7枚の株券 を残してあげました。
実際は、晩年の主な収入源は、貴族からの年金が主であり、豊かではありませんでした。
第九交響曲
九つの交響曲の中の代表作品には、第五番「運命」、第六番「田園」や、躍動感溢れる第七番、54歳で書いた第九番「合唱付き」があり ます。
4楽章に、シラーの詩による人間愛に溢れた「合唱」を有するこの壮大な交響曲の初演では、ベートーヴェンは指揮をするものの、も う全く耳が聴こえなくなっていたので、隣で別の指揮者がタクトを振り、楽団員はそちらを見ていました。
会場は割れんばかりの拍手でしたが、ベートーヴェンは聴くことが出来ませんでした。
「おお友よ、このような音ではなく心地よい歓喜に満ちた歌を歌おう」という、「苦悩から歓喜へ」と展開して行く楽想は、ベー トーヴェンの人生観そのものだったのかもしれません。
巨星墜つ〜ウイーンでの大葬儀
1827年、激しい豪雨と落雷の激しい3月26日の夕方に、肝硬変のため永眠しました。56歳でした。
デスマスクをとられ、耳は、解剖のため切り取られました。
葬儀には、貴族の四頭立て馬車をはじめ2000台の馬車と、2万人のウイーン市民が集まりました。
作曲家のシューベルトは、墓地までの松明持ちにも参加し、「尊敬するベートーヴェンの隣に眠りたい」と、今でも、ウイーン中央墓地 に隣り合って眠っています。
ベートーヴェンは死の間際に、ブロイニング侯爵と弟子に「喝采せよ、友よ。喜劇は終わった。」と語ったそうです。
参考文献
- 1992年、1993年 メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦 勝村仁子訳 「ベートーヴェン上下」 岩波書店
- 2004年 青木やよひ著「ゲーテとベートーヴェン」 平凡社新書
- 2009年 石井清司著「ドラマティック・ベートーヴェン」 ヤマハミュージックメディア
- 2005年 原田宏美著「ベートーヴェン ソナタ・エリーゼ・アナリーゼ!」 音楽之友社
- 1927年 イェフディー・メニューヒン/カーティス・W・デイヴィス著 別宮貞徳訳「メニューヒンが語る 人間と音楽」 日本放送出版協会
- 1970年 パウル・バドゥーラ・スコダ著 高辻知義 岡村梨影共訳「ベートーヴェンピアノソナタ演奏法と解釈」 音楽之友社
- 1965年 諸井三郎著「ベートーヴェン ピアノソナタ作曲学的研究」 音楽之友社
- 2007年 福島章著「ベートーヴェンの精神分析」 河出書房新社