ガブリエル・ユルバン・フォーレ

南フランス・パミエ1845→パリ1926

南フランスのパミエで、祖父の代までは肉屋さんを営むフォーレ家だが、父は小学校教師から校長になり、その5人の息子(フォーレは末っ子)は、公職にも多く就くようになる。

ガブリエル・ユルバン・フォーレ

9歳の時、パリのニデルメイエール古典宗教音楽学校に入学。礼拝堂楽長を養成する学校である。ニデルメイエールの死後、ピアノ講師として赴任して来たサン・サーンスと師弟関係になり、以来ずっと親交が続く。そこでの教育は、フォーレの音楽における旋法の使用などに影響をみる事が出来る。卒業後、フォーレは、レンヌの教会のオルガニストに就任後、地方暮らしに飽き飽きし4年後に辞職し、志願して普仏戦争に従軍している。その後、パリのサン・シュルピュス教会の副オルガニストを経て、マドレーヌ寺院の礼拝堂楽長(サン・サーンスの後任)となる。フォーレは、オルガンにはあまり熱意を持たないが、サンサーンスの証言によれば、「オルガンに向かうと、一級のオルガニストであった」そうである。
婚約者マリアンヌとの破談後、苦い思いで作曲したものが「夢のあとに」である。

 38歳で、彫刻家のフレミエ(パリのピラミッド広場にあるジャンヌ・ダルク像などを制作した人物)の娘マリーと結婚し、同年、長男が誕生する。この年(1883年)、ピアノ曲を多く作曲する。上流の夫人に非常に人気があったフォーレは、後にドビュッシー夫人となる才気煥発なエンマ・バルダックらと浮き名を流す。パリの上流階級のサロンで常連となる。それ故か、ショパンの書法の影響がみられる彼の初期から中期の作品は、サロン的な流麗さがあり、かつ官能的で甘美な旋律と和声、驚くべき美しい転調が特徴となっている。

 マルセル・プルーストの長編小説「失われた時を求めて」では、フォーレをモデルとした作曲家が登場するが、まさにその華やかで優雅な社交界に彼は出入りしていた。

 1890年代、ドイツの作曲家ワーグナーの信仰者が多いパリの楽壇でも、フォーレは、ワーグナー熱には巻き込まれない作曲家であった。

 音楽学校の学生だった頃から、フォーレは、オルガンよりもピアノに関心を示していた。ピアノ曲は、歌曲や室内楽と共に彼に取って重要なジャンルであり、60曲を越えるピアノ曲を残した。ヴァルス・カプリス4曲、バラード、連弾曲ドリー、ノクターン(夜想曲)12曲、バルカローレ(舟歌)13曲、アンプロンプチュ(即興曲)6曲、主題と変奏などが、彼の主要なピアノ曲である。
とりわけ、バルカローレとノクターンは、彼の生涯の長い時期に渡って作曲されている。

 彼の音楽は、独自の美意識を貫いており、生涯を通じて、純粋音楽の領域で創作を続けた。絵画的な表現や異国情緒や民族音楽の方向に逸れる事は無かった。
フォーレの音楽の底には、謹厳さがあり、胸に沁みる憂いに満ちた優しさや、夢想的で控えめな性格、思慮深い微笑みを有している。

 1897年(52歳)、フォーレは、マスネの後任として、パリ国立音楽院の作曲科の教授となる。教え子には、モーリス・ラヴェルや、フローラン・シュミット、ケックラン、デュカス、エネスコらが育った。

 1905年(60歳)より、パリ国立音楽院(コンセルヴァトワール)の院長という、フランスで最も権威ある要職に就くことになる。その2年前より、「フィガロ紙」で音楽批評を担当する。ちょうどその頃から、聴覚障害を覚え始める。
師のサン・サーンスは、フォーレのキャリアの重要な場面で、常に援助を惜しまなかった。

マドレーヌ寺院

マドレーヌ寺院

 

1915年頃は、第一次世界大戦で生徒を沢山戦場にとられ、心配の日々を送る。聴覚の病も次第に進む
 フォーレは、仕事での旅先から妻への手紙を沢山残しており、次男のフィリップによって、非常に貴重な資料として出版がされている。手紙の内容は、妻への愛の言葉ではなく、日々の感想や構想中の作品のことであり、正確に記載されている。見合い結婚の妻への愛は醒めても、思いやりの気持ちを失う事がないフォーレであった。
作曲という行為は、常に要職に就いていたフォーレの、安らぎの行為であり、彼の本当にやりたかった事であった。
葬儀は、マドレーヌ寺院で、自身の作曲した「レクイエム」が演奏される中、国葬が営まれた。79歳であった。フォーレは、45歳の時に「レクイエム」への記述で、「私にとって死は、苦痛というより、喜ばしい解放…」と述べている。息子達へは「私がいなくなったら、私の作品の言っていることに耳を傾けなさい。」と言い残している。