ポーランド1810年3月1日生まれ[2月22日説もある] → 1849年10月17日 パリ没
肺の病いで39歳でこの世を去ったショパンは、20歳の時に起きたワルシャワ蜂起の際に、祖国ポーランドを離れ、自らの才能を守り発展させるために、パリに活躍の場を求めました。
当時、ロシアからの圧政に苦しんでいたポーランド人は、独立に向けて立ち上がり、国は戦火にさらされていました。
ショパンは、その革命で、武器を持って戦うのは断念しましたが、芸術を持って立ち向かい、生涯、愛国心は消える事なく、故国への想いやポーランド独自の文化[ポロネーズ、マズルカ]を、自分の作品の中に織り込みました。
ポーランドへは、二度と戻れぬまま、異国の地でどんなに喝采を浴びても、生涯、孤独感は消えるはなかったといいます。
音楽を愛する両親
ショパンは、ジェラゾワ・ヴォラと言う村で生まれました。母ユスティナはポーランド人、父ミコワイはフランス人ですが、二人は、その村を所領するスカルベク家に、それぞれ雇われていた時に出逢いました。
ユスティナは、スカルベク家の遠縁で、早くに両親を亡くした為、家政を取り仕切る役割として、そこに住み込んでいました。
家庭教師として雇われていた父ミコワイは、フランスのロレーヌ地方にいた少年時代に、その領地を管理するポーランド人に、頭の良さを買われて、特別な教育を受けました。その知遇で16歳の時にポーランドに来て以来、フランスに戻る事はありませんでした。
文学を好み、ヴァイオリンやフルートの演奏が出来た父と、ピアノや歌の上手な母は、音楽が結びつけた縁でもあり、楽の音は結婚後も絶える事がなかったといいます。
家庭環境の良い少年時代
ショパンの生まれた年、一家は、首都ワルシャワに移り住みます。父ミコワイが、ワルシャワ高等学校のフランス語フランス文学の教授の地位を得たからです。
ショパンには、姉や妹もいたので、父は、さらに収入を増やすため、学校に遠方から通って来る富裕な生徒達のために、高級寄宿舎を作ります。
これは成功し、ショパン一家もその「サスキ宮」内部に住みます。サスキ広場では、次第にロシア軍の行進が繰り広げられる様になり、ワルシャワ高校は、新しく設立されたワルシャワ大学の隣に引っ越すこととなります。
4人の子供をかかえたショパン一家は、家政婦と家庭教師付きでこのカジミエシュ宮に移り住みますが、そこには大学教授や、詩人、文芸理論家、数学者、民俗学者などが入居しており、そうした人々と交流し、毎週木曜日に集まり合って賑やかに過ごしました。
4歳のショパンが、ピアノに示す興味はただならぬもので、最初、母が手ほどきをしますが、最初の師として60歳のジブニー先生が迎えられ、バッハやハイドン、モーツアルトなどドイツ音楽を学びます
ポーランドの社交界の寵児
少年ショパンは、7歳で、最初の「ポロネーズト短調」を作曲します(父が譜面に書き取り、出版されました)。優雅なメロディー、無駄のない音型や和声はこの頃から特徴に現れていたといいます。
その頃に、雑誌では「この舞曲の作者ー満8歳の若者は、ワルシャワ高等学校のミコワイ・ショパン教授のご子息にて、正真正銘の天才なり… 」と書き出されている点を見ても、ショパンは、ある地位を持つ堅実な家庭に育った事が明らになります。その礼節をわきまえたしつけは、後々まで、上流社会に好ましく受け入れられる良い影響を残します。
この時の記事を読んだ、ワルシャワ貴族界では、早速、ショパンを是非サロンに招きたいとの申し込みが殺到しました。
「ショピネック」という愛称を付けられ、社交界の花形になっていきます。ショパンの家の前には、サロンへの招待のお迎えに来た、貴族の従者の馬車が後を絶たなくなります。
才能ある息子に対し、父ミコワイは、惜しみない支援はしましたが、モーツアルトの父の様に、それで儲けようといった野心は全くありませんでした。
そのため、有料の演奏会は禁止でしたが、チャリティーコンサートの形で貧しい人々を救うなら…との許しを得て、実行に移される事となります。
8歳のショパンは、伯爵夫人が会長を勤める慈善協会でデビューを飾り、多くの貴族や富豪たちの大喝采を受けます。
11歳の時に、老ジブニー師のレッスンは終了し、新しく、二人の先生がピアノと作曲の指導に当たります。
毎木曜日のショパン家のサロンには、学士の他にも、音楽家や芸術家も集まるので、そうした中で高名な人が教えを授ける事を名乗り出てくれるのです。
そこで、ヴュルフェルという一流ピアニストで教育者でもある人が、「ヴィルトゥオーゾ」的な技法や、「ブリランテ」という華麗な技法を学ぶのです。
ちょうどその頃、ハンガリー人のフランツ・リスト少年は、ウイーンでの演奏会で聴衆を驚嘆させたという記事が新聞に載った様です。
学生時代のショパン
父も教師の一人であるワルシャワ高等学校時代は、病弱な体質なために学校に通ず家庭学習をしていた時期もありましたが、13歳からは、楽しい学校生活を送ります。
学校は、家の目の前に有り、先生も生徒も昔からの知り合いだったので、ショパンにとって、学校とは、打ち解けた心地よいものでした。
威張らず飾らない人柄で、「ものまね」が大得意な少年として、人気があったといいます。
頭は良かったそうですが、興味がある文系の科目(文学・歴史)と、退屈な理数系の科目がはっきりしていた様です。
夏休みは、静養のため田舎で過ごしたりしました。乗馬をしたり、遠足をしたりに次第に退屈してきたショパンは、ワルシャワの家族に「新聞」のパロディー形式で、身の回りの事を事件に仕立てたチャーミングな手紙を送るなどしています。
田舎では、民族の踊りを見て、熱心に民族音楽の採集などをし、そうした中で、最初のマズルカが作曲されます。
ショパンは、ワルシャワの音楽院に進みますが、同時にワルシャワ大学で歴史や文学の講義にも出席します。教養を身につけさせる教育は、父の立派な方針でもありました。
ウイーンでの演奏会
19歳で音楽院を卒業し、音楽の都ウイーンへの旅に出たショパンは、そこでも「奥深い感情から流れ出る表情付け、タッチの繊細さ、」など諸々の美点を大いに評価されます。
人生のどの時点でも、彼は、世のセンセーショナルな扱いに、謙虚でいようとしました。
演奏会の際の、広告、ポスターなどを嫌い、あまり演奏会そのものも好まず、むしろ個人的な親しいサロンなどで、本当の理解者の中でくつろいだ雰囲気で弾くのが好きだった様です。
二度と踏む事のないワルシャワの地
ショパンは、友情をとても大切にしました。ワルシャワ時代の親友ティトゥスや、パリに行ってからもなにもかも頼める親友だったフォンタナなど、深く親交のある友に恵まれました。
運命の1830年、親友ティトゥスに同行してもらい、数年間の演奏旅行をしようとしていました。
父ミコワイも、国内情勢が緊迫している中で、一刻も早く、息子を国外に出してやりたがっていました。
秋には、国民劇場で、祖国とショパンのの告別の演奏会が開かれ、「協奏曲 ホ短調」が演奏されました。
そのひと月後、校長や学生合唱で見送られる中、ショパンの乗った駅馬車は感慨ひとしおに、二度と見ることがないワルシャワを後にすることとなります。
ワルシャワ蜂起
その後、ティトゥスとともに、ドレスデン、プラハと経由しウイーンに到着します。ウイーンでは、すっかり忘れ去られていたショパンは、演奏会の約束も延び延びにされたので、毎晩の様に、オペラを観たりして音楽の都を満喫しようとしますが、ワルシャワに対し敵対的なこの街では、ひどく疎外感を味わいます。
とうとうワルシャワでは、11月蜂起が勃発し、ティトゥスは国に帰って参戦する事を決意します。
ティトゥスに「ショパンは、闘いでは役に立たないから、自分の芸術に専念し、ポーランドの名を世に広める事によって、銃を取るのよりもずっと祖国のためになる!」という説得をされ、ショパンも納得して、命運を決意するにいたるのです。
各地を経由して、パリへ向かうショパンは、シュトゥットゥガルトで、ワルシャワの陥没の訃報に接します。
もう、完全にロシアに占領されてしまった祖国へ戻る望みは、無くなったのです。
焼き払われた町や、家族や友の不遇を憂いていたこの時期は、絶望や極度の緊張、興奮、激しく渦巻く様な感情が、全くの一人旅となったショパンを襲います。
この時期は、激情を日記につづり、「op10の練習曲」を書き上げます。この練習曲には、有名な「革命のエチュード」が入っています。
パリの社交界で
大都会のパリは、良くも悪くもショパンを圧倒し、感嘆させました。
ポーランド人への態度も、ドイツ人(ポーランドは、ロシア・プロシア・オーストリアに三国分割されていた)とは全く違って居心地が良く、自由を感じて、更に、ポーランドから亡命して来た多くの文化人達と(「バラード」に霊感を与えた詩人ミツケヴィッチなど)、またたくまに交友を結びます。
そして、多様な芸術家が引き寄せられる様に集まって来たパリで、爛熟する文化の香りに包まれながら、オペラの舞台を観たりサロンに通ったりして音楽生活を謳歌します。
カルクブレンナーという、当時のパリ最高の指導者からも目をかけられますが、弟子入りは断ったものの、その後も、様々な場で助言や後押しをして貰える様になります。
彼の紹介で、楽器製造業者のプレイエルのホールで、パリデビュー公演が開かれます。
そこには、招待客として、著名な人々の姿が有り、リストやメンデルスゾーンも、この観客の中にいました。
この演奏会は大成功し、これを機に、ショパンはパリの楽壇で押しも押されぬ地位を獲得していきます。
リストやベルリオーズなどの新しい友人と、音楽家サークルの様なものまで出来上がり、皆で議論や食事など共に過ごす楽しい時間も持ちました。
この頃の主な収入源は、貴族の子弟のピアノ個人レッスンで、一日5軒を馬車で回り、かなりの収入を得たため、ポーランド人亡命者の経済的援助をするなど、慈愛あふれる性格もみられます。
マリア・ヴォジンスカというポーランド女性に恋をし婚約しますが、しばらくの後、相手の家から、ショパンの健康上の理由から、断られます。
その時の痛手は相当深く、水色のリボンで束ねられた手紙を、「わが悲しみ」と題し、死ぬまで保管されていたそうです。
女流作家ジョルジュ・サンドとの出逢い
ショパンの作風は、ますます深い情感を表すものとなっていきました。カールスバートに療養に来た両親と、再会を果たし、一ヶ月間幸せな家庭生活を味わいますが、パリでのショパンは、孤独感がつきまとっていました。友人と同居したりして、家庭のぬくもりへの渇望を満たそうとします。
そうした中、リストの愛人マリー・ダクー伯爵夫人のサロンで、男装の麗人と呼ばれていた、作家のジョルジュ・サンド(これはペンネーム。本名はオーロール・デュパン)と知り合います。
最初の頃ショパンは、奇抜な彼女をあまり好かず、友人に手紙を送ってその時の悪印象などを述べたりしています。
サンドは6歳年上で、元夫との結婚に終止符を打ち二人の子供を養育しながら、奔放な生活を送っていました。
作品には、私小説と考えられている男性遍歴の小説や、牧歌的な短編「愛の妖精」などがあります。
サンドの方から、ショパンにアプローチをかけ、次第にその意外性のある思いやりと、母性的な献身に惹かれていき、情熱的にのめり込む様になります.
マジョルカ島へ
二人がつき合い始めた頃、サンドは、自身の息子と娘を連れて、スペインのマジョルカ島での静養を、ショパンに勧めます。
ショパンはその誘いに乗り、こうして、紺碧の海と切り立った岩壁、糸杉やオリーブの情景に、オレンジやレモンの香りが立ち込める、地中海独特の美しい土地に旅立ちます。
一行は、そこで豪雨と湿気に合い、ついにショパンの肺の病が悪化してしまいます。
島の住人からは、「結核患者が来た」と口々に言い合い、家具の消毒など徹底させたり交通手段を制限したりと、ひどい扱いを受けました。
次第に回復する中、サンドは、丘を登るのが大変なショパンに、ロバを買ってあげたり、プレイエルからピアノを運ばせたり献身的にお世話をします。
マジョルカ島では「24の前奏曲」を書き上げます。雨だれの前奏曲は、マジョルカの雨でしょうか。。
ノアンの屋敷での静養と作曲の日々
フランス中部のノアンの屋敷は、サンドが祖母から譲り受けた大きくて優雅な邸宅でした。
自然に囲まれた田舎での暮らしは穏やかで温かく、サンドの手厚い庇護のもと次第に健康も回復に向かい、ショパンは作曲に専念します。ショパンにとって、夢にまでみた家庭の暖かみが味わえて、幸せだったこの時期ほど、創作活動が充実した時期はありません。
名だたる傑作が、続々に生み出されました。ノアンとパリを行ったり来たりの数年が、充実して過ぎて行きました。
ショパンの作品には、人々の心の琴線に触れる深い感情の吐露があり、そのため苦手な大規模なコンサートの前は、神経質な大騒ぎをする程、緊張していたそうです。
この時期で特筆すべきは、サンドが、ポーランドのショパンの父の訃報に際し、母ユスティナに対して、心優しく折り目正しい、素晴らしい慰めの手紙を送っている事や、ショパンの姉夫妻を邸宅に招き手厚くもてなし、その後破局までの間、文通していたことなどがあります。(サンドからの一方的な破局後は、姉は返事を書きませんでした。)
その筆致は、破天荒な作家のものではなく、愛情深い年上の女性として、きめ濃やかな心配りをしている内容と言葉の運びでした。
サンドとの破局
パリやノアンでの7年間の同居も、次第に、暗雲が立ちこめます。
1845年にサンドの娘ソランジュと、彫刻家のクレサンジュとの結婚問題で、サンドの親子はお家騒動になります。ショパンが ソランジュの側につき味方をしたとかで、親としての威信をつぶされた様に感じたサンドが、ショパンに干渉せぬ様に手紙できつく言い渡しています。
繊細なピアノの詩人との生活は、サンドに取っては、非常に神経を使うものだったのかもしれません。二人の気質は、全く正反対でした。
別れの手紙の数ヶ月前まで、ショパンは、パリとノアンで離れて過ごすサンドからの要求に応じ、冬服の布地をあつらえたり、ボンボンを送ったりとこまめに尽くしている様な手紙が残っています。
この頃から決定的に、ショパンの結核の病状が悪化の一途をたどっていたことを、サンドは知っており、むしろ本人に隠していました。
1846年になって、ショパンに最後の手紙を送りつけたサンドの心中には、どのようなものが渦巻いていたのでしょうか。
特にどの資料にも記されていませんが、ショパンの結核の悪化を、本当にサンドは受け入れていたのでしょうか。
この3年後にショパンが亡くなった事を思うと、この破局の痛手の大きさは、計り知れません。
祖国や父母姉妹と離れてはじめて味わった、温かい家庭らしきぬくもり…、10年近く続いたサンドとの関係がもたらした恩恵は、それを心ならずも失ったショパンにとって、魂の死に近いものをもたらしました。
別れてすぐ後に、サンドは新聞記者の愛人となり、ショパンの方では、母親から勘当されたソランジュ夫婦に手紙を出し続け、死ぬまで親交を絶ちませんでした。
そうすることで、サンドとのつながりを絶ちたくないという想いもあったのでしょう。
ショパンとサンドが最期に会ったのは、ソランジュの出産の折で、廊下でひとこと言葉を交わしたのみでした。
失意のイギリス演奏旅行
茫然自失となって、創作意欲もすっかり枯渇してしまったショパンに、弟子のスターリング嬢が、ロンドンでの演奏会を計画します。
ショパンは、健康状態も悪化したままロンドンへ旅立ち、孤独で滅々とした日々を送ります。最後の作曲となったのは、マズルカです。
ポロネーズに始まり、マズルカに終わったショパンの創作活動は、ポーランドの愛国心で溢れています。
パリでの最期の時
1849年10月、39歳のショパンは、最後の住まいであるヴァンドーム広場12番地で、親しい友人に歌を歌ってもらい、姉や、親しい友人に囲まれて息をひき取りました。
亡くなる前日に、最後の言葉として「自分の心臓を故郷のワルシャワに運ぶこと、葬儀にはモーツアルトのレクイエムを流すこと」など残しまいた。
葬儀はマドレーヌ教会で執り行われ、聖堂には約3千人の人々、外には大群衆が立ち尽くしていました。レクイエムの他にも、ショパンのプレリュードや、葬送行進曲が演奏されました。
葬列は、ペール・ラシェーズ墓地に向かって出発しましたが、心臓だけは、今もポーランドの聖十字教会に納められています。
参考文献
- バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著 関口時正訳「決定版 ショパンの生涯」音楽之友社
- アーサー・ヘドレイ編集 小松雄一郎訳「ショパンの手紙」白水社
- 下田幸二著「聴くために 弾くために ショパン全曲解説」ショパン
- 室田尚子・佐藤浩子・山尾敦史共著
- 「知っているようでしらないショパン おもしろ雑学事典」ヤマハ
ショパンの主要作品リスト
ピアノ協奏曲
第1番 | ホ短調op11 | 1830年 | 20歳 | ワルシャワを離れる頃 |
第2番 | へ短調op21 | 1829〜30年 | 1番より先に作曲 |
ポロネーズ
(ポーランドの民族性豊かな3拍子の舞曲。マズルカより規模が大きい。7歳の時、初めて作曲したのはポロネーズト短調)
第3番 | op40-1 | 軍隊 | 1838〜39年 | 28歳頃 | サンドとつき合い始めた頃 |
第5番 | op44 | 1841年 | 31歳 | ノアーンの頃 | |
第6番 | op53 | 英雄 | 1842〜43年 | 33歳頃 | ノアーン |
第7番 | op61 | 幻想 | 1845〜46年 | 36歳頃 | サンドとの仲、健康状態の悪化 |
アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズop22 | |||||
ポロネーズ部分は、ワルシャワを出た頃。アンダンテ部分は、パリ楽壇でもてはやされ始めた頃。パリ音楽院ホールで、オーケストラと共演。 |
バラード
(ポーランド出身の詩人、ミツキエヴィッチの壮大な物語詩からインスピレーションを得る。『』内はその詩の作品名)
第1番 | op23 | 『コンラッド・ワレンロッド』 | 1831〜35年 23歳頃 | パリに来た頃 |
第2番 | op38 | シューマンに献呈 | 1836〜39年 29歳 | マジョルカ島で完成 |
第3番 | op48 | 『水の精』 | 1840〜41年 30歳頃 | パリで久々に公演を開き益々高まる名声 |
第4番 | op52 | 1842〜43年 33歳頃 | 親友や相次ぐ知人の死 |
スケルツォ
(冗談、戯れという意味)
第1番 | op20 | 1831〜33年 | 22歳頃 | ワルシャワの革命を聞き、激情のシュトゥットゥガルト時期。 |
第2番 | op31 | 1837年 | 27歳 | サンドとの出逢いの頃 |
第3番 | op39 | 1838〜39年 | 29歳頃 | マジョルカ島で着手 |
第4番 | op54 | 1842年 | 32歳頃 |
パリのオルレアン・スクエアの家で、サンドと行き来していた充実期。 |
ピアノソナタ
第2番 | op35 | 「葬送」 | 1839年 | 29歳 マジョルカ島 |
第3番 | op58 | 1844年 | 34歳 父ミコワイ死去 |
エチュード
エチュードop10(12曲) | 1829〜33年 | 19歳より |
ワルシャワを出てシュトゥットゥガルトで絶望していた頃に作曲。 |
||
エチュードop25(12曲) | 1832〜37年 | リストの愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人に献呈 |
プレリュード
プレリュードop28(バッハと同じく、24の調で書かれた)
1938から39年 ワルシャワ蜂起で悲嘆にくれていたころに書き始め、マジョルカ島で完成
マズルカ
(ポーランド民族性豊かなの3拍子の舞曲。最晩年に作られたのは、2曲のマズルカでした。生涯に渡り多くのマズルカを作曲。)
第5番 op7-1 1830頃 20歳
ノクターン
(夜想曲。生涯に渡って作曲。)
ノクターンの創始者はアイルランドの作曲家ジョン・フィールド(1782〜1837)。
有名なop9-2は、20歳頃の作品。
もうひとつ有名な遺作のノクターンは、実際は20歳頃の作。
ワルツ
第1番 | op18 | 華麗なる大円舞曲 | 1833年 | 23歳 | ワルシャワから離れ、ウイーンに立ち寄った際、シュトラウスのワルツなどを沢山耳にした影響による。 |
第6番 | op64-1 | 子犬のワルツ | 1846〜47年 | 37歳 | サンドの飼っていた犬の様子。 しかし、この頃二人は別れる。 |
第7番 | op64-2 | 同じ時期 | |||
第9番 | op69-1 | 別れのワルツ | 25歳 | マリア・ヴォジンスカから婚約解消される。 |
即興曲(4曲)
第1番 | op29 | 1837年 | 27歳 | |
第4番 | op66(遺作)幻想即興曲 | 1834〜35年 | 25歳位 | 婚約解消で失意。出版は、死後、フォンタナによる。 |
幻想曲
op49 1841年 31歳 ノアーンの屋敷で生まれた曲。
舟歌(バルカローレ)
op60 | 1845〜46年 | 36歳 | 8分の12拍子の美しい作品は、ノアーンの屋敷で完成。 しかし、しだいに不和が。漂う寂寥感は、そのためか…。 |