横濱音楽塾
昨日の日曜、東京八重洲で用があり、その前に足を伸ばして、南万騎が原のピアノクリニックヨコヤマさんの「横濱音楽塾」を聴いてきました。
横浜からさらに20分。素敵な看板が目印のヨコヤマさんのお店では、これまでにアメリカで教鞭をとられていたピアニストの長島達也さんによる「ピアノ音楽史の流れ・全体図」の回を聴くことが出来ました!
音楽を専門にしていない方々にもわかりやすく、専門用語をつかわず、どんな風にお話されるのかがとても興味がありました😊
長島さんは、ご両親がそれぞれピアニスト、オペラ歌手だったそうで、ご幼少の頃から「音楽の全体像」をご家庭で聴いて育った経験が、のちに細部を理解するのに非常に役立ったと話されていました。
熱量の高い、目に情熱の込もったお話ぶりの大変印象的な長島さんの、演奏と講義に惹きこまれた2時間でした。
音楽史は、語る人によって、また対象者によって、語り口も、クローズアップされる出来事も変わってくるので、何度きいても飽きず、新たな発見がたくさんあります。
八重洲に戻らなくてはならなかったので、ロマン派以降聴けなかったのが残念でした。300年のピアノ史の骨格をどう話されたのか気になります!
その後も学びに溢れ実り多い一日となりました。
ピアノレッスンのあり方を模索し続ける-ペルルピアノ教室HP
ワインと音楽 (2)
モーツァルトは安らぎ
若いころ、作曲家が円熟の極みに達した、「後期」の作品に惹かれていました。
でも今は、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトのソナタにおいて、「初期」の作品を弾きたい気持ちになります。
出発点となる初期から順に辿って、年代を追って彼らに起こった出来事、成熟の過程を想像しながら、弾いていくのも、なんだか楽しいものです。
モーツァルトの曲は、心が安らぎます
手にも負担がかからないですし
2年前に、手を痛めた時から、今ではすっかり治っていますが、手を労るようになりました。
長く弾き続けたいですから手に聞きながら、練習をします。
作曲の中に、「安らぎ」を見いだしたのは、フォーレがそうですね。
作曲をしているときが、本当の自分に戻る時間だったようです。
曲のなかにこそ、自身の真実があったのでしょう。
「すもももももももものうち」
タイトルにした早口言葉、実際口に出して言ってみると、本当に言いづらい…です
フルーツ王国の山梨、7月に入り、とうとう息も出来ないような、もわ〜っとした暑さがやって来ました
ここに比べると、郡山は、やはり東北。もう少し雲がかかっています。
この寒暖の差が、美味しい果物を作ってくれると思うと、暑さもなんのその(ほんとかな…!?)。
ハンブルク出身の大作曲家ブラームスのお母さんの作る、「こけもものジャム入りドーナツ」は、絶品だったと、伝記で読んだことがあります
その素朴な味は、シューマンの奥方でピアニストのクララ・シューマンら、美食に飽和した音楽家達も、舌鼓を打ったとか。
そういうのを聞くと、作ってみたくなります
でもこのプラムは、生で、甘酸っぱさをかみしめたい!
またしても、フルーツ礼賛ブログでした
フォーレのバルカローレと神谷美恵子さん
全13曲からなる、フォーレの舟歌(バルカローレ)は、36歳から76歳までの40年間に渡って作曲されています。
このところ、車の中で、よく通して聴いていました。
6番くらいまでは、みずみずしい煌めき、グノー=マスネティックなサロン風の名残りもみせつつ、フォーレにしか出せない香気があり、よく聴いたり、弾いてみたりしていました。
でも、晩年の12番とか13番の味わいも、とても胸に沁みます。
装飾性を一切排除した、その清澄さ、朗らかさは、
色や飾りのない世界へ、これから旅立つことを知っているからなのか、
枯淡の平明さ、あたたかみが滲み出ています。
”末期(まつご)の眼”で見ると、いつもの当たり前に在る風景が、どんなにか美しく映ることか、と想像します。
ふと、神谷美恵子さんの日記(角川文庫)を以前読んだ時のことを思い出しました。
本当にお若い頃から立派なことを考えておられて、あれこれ悩まれた考えの経緯を仔細綴られているものだなと読み進めていくと(25歳〜65歳)、晩年の数年は、日付けも間遠になり、内容も具体的なメモのように簡潔になったと記憶しています。
フォーレのその2曲は、どちらも長調ですが、惜別の明るい調べは、なんとも胸に響きます。
晩年の作品は、耳に心地よいだけでない、拮抗する表情もみられます。推し量ることの出来ない、人の「晩年」を想う時間でした。
ツィメルマンのリサイタル
昨夜は、サントリーホールに、クリスチャン・ツィメルマンを聴きに行って来ました。
シューベルトが亡くなる3ケ月前に作曲した、3つの偉大なソナタの内、2曲。
イ長調のD959と変ロ長調D960でした。
2曲とも超越的ながら、対照的とも言えるこの作品。
イ長調は、最後の生命の力を振り絞り、勇気を持って死に立ち向かうかのような力強さがあります。
2楽章では、一転、孤独なさすらい人の嘆きと叫びがあります。
変ロ長調のソナタは、深い情緒をたたえ、心を奪われる旋律の美しさは、一度耳にしたら忘れられぬ、最高傑作です。
この1楽章は、シューベルトが日記に残した、「愛を歌うと苦しみになり、苦しみを歌うと愛に変わる」ということば、そのもののように思います。
どちらも「天国的に長い」です。
ある評論家の説ですが、シューベルトの器楽曲がどこまでも長いのは、シューベルトにとっては、歌が・音楽が「終わらないこと」が大事なのであり、短命の運命に抗って、いつまでも続くことを願っていると読んだことがあります。
ツィメルマンの、変ロ長調ソナタの演奏は、非常に、巧みに練れており、どこまでも自然に表現され、叙情的な歌い方は、まさに本領発揮といった感がありました。
殆どの聴衆は、この曲の演奏がお目当てだったはず!
玉虫色に微妙なあやを魅せ移り変わる転調は、どこまでも美しく、シューベルトの魂が乗り移ったかのようで、音楽にぴったり付いていくように、ハートを奪われ聴いていました。
ステージ横の、ピアノの音が立ち昇る席から、背中からの動きや、手の動きが良く観えました。
アンコールでは、シマノフスキの前奏曲を一曲。
良かった…この長大なソナタの後、即興曲や楽興の時などが来たら、せっかくの興が・・・
最後に、シューベルト自身の言葉を。
「音楽とは、みんな悲しいものだ。
楽しい音楽なんてあるだろうか。」