ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト

(1765〜1791)ザルツブルグ ー ウイーン

父と息子

1756年1月27日、バッハの死後6年後に、モーツアルトがオーストリアのザルツブルグで産声をあげた。

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父レオポルド・モーツアルトは、ザルツブルグの宮廷音楽家として40年仕えた。ちょうど、ヴォルフガング誕生と同年に自費出版された「ヴァイオリン教程」という指導書が後世に伝えられている。父レオポルドは、若い頃、実母との折り合いが悪くなり、アウクスブルクにある実家との関わりを絶たれてしまっている経緯があり、ヴォルフガングの才能を、自身の野心と大望を満たす役割としてある意味、利用していたとの見方もある。レオポルドは、「ヴァイオリン教程」でも述べている様に、アンチ権威主義ではあったが、実際は非常に地位や名声を欲しがっており、自分が得ている以上の地位に息子つけたいとは、終始考えていた様である。

しかし、教養ある立派な父親として子供の教育に真摯に取り組んだという点は、見過ごされてはならない。「モーツアルトの手紙」が父に宛てられたものが一番多かった事からも、モーツアルトが、誰を一番信頼し指針を仰いでいたかが伺われる。「神様の次はパパです」がモーツアルトの少年時代のモットーであった。

父の方は、息子を終始、支配下に留めておきたい願望もあった。
ヴォルフガングは7番目で37歳の時の子供だったが、当時は衛生状態が悪く、産後死亡率が高かった為、4歳半年長の姉ナンネルとの2人姉弟だった。

早くから、息子の天才的な才能に気付いたレオポルドは、「演奏旅行」という方法で、その才能を世間に知らしめる。狭いザルツブルグでは無く、大きな市場での仕事を求めての旅である。(これは、モーツアルトが青年期に近づくにつれ、就職口を探す旅となる。)そして父は、あらゆる機会に所得を増やす事を考えながら、財産作りに走って行った。

旅から旅へ

1762年(6歳)のミュンヘン、ウイーン旅行から、死の年1791年(35歳)のプラハへの旅まで、生涯が旅から旅の人生であった。母親が亡くなるまでの間は、家族全員や、あるいは家族の誰かと一緒というスタイルであった。一家の旅行は、四頭立ての馬車で行われた。節約家の父が何故そうした出費を惜しまなかったかと言えば、見栄えのためである。この旅には、モーツアルトが幼年期のうちは、ザルツブルグ大司教から補助金が出ていたし、どこかの国がスポンサーになる時もあった。

ザルツブルグ

ザルツブルグ

 各地で「神童」と呼ばれ、一家は大歓迎を受け、もてはやされた。
王侯貴族から、褒美に大礼服を贈られたこともあった為、モーツアルトは、終生、公の場では、身なりにこだわったそうである。「薔薇色のモワレの生地に銀のレースと空色の飾りのある服を新調した」ことなどが、ナポリからのレオポルドの手紙に残されている。
その他、山の様な高価な贈り物を受け取ったとされている。演奏旅行では、経費を差し引いたとしても、かなり大きな収入を得ていた。

ドイツ語圏のみならず、パリやイタリア、或る時はドーヴァー海峡を渡ってイギリスの地も踏んだ。ロンドンでは、バッハの末息子ヨハン・クリスティアン・バッハや名カストラート(去勢された歌手)にも出会い、大変刺激を受ける。
この頃のザルツブルグ大司教は、シュラッテンバッハという理解ある人物で、モーツアルト一家の評判で、ザルツブルグが活気づくことも知っていたので、寛容な事に、有給で大旅行のための休職をはからったのだ。

旅行は、モーツアルト自身も望んだ事であり、21歳までは、何処に演奏旅行をしても必ずザルツブルグに戻らなければならなかった。父が宮廷音楽家(度重なる旅の故の不在で、出世は副楽長までだった。)だったばかりでなく、息子の方もまだそこに仕えていたからである。

フランクフルトでは、当時14歳のゲーテがモーツアルトの演奏を聴いており、ウイーンのシェーンブルン宮殿では女帝マリア・テレジアに謁見し、まだ少女のマリー・アントワネットとの邂逅もあった。

オペラへの興味

モーツアルトの作品において、創作の重要な要となるジャンルである「オペラ」だが、これは、1769年末から1773年まで父子で行ったイタリア旅行に、最初の芽を見つける事が出来る。モーツアルトはイタリアに魅せられ、なんとミドルネームを改名までしてしまった。アマデウスとは、ここから名乗るようになる。当時14歳頃のモーツアルトは大はしゃぎで、母親に、イタリアでの楽しい生活の様子を手紙で送っている。

ヴェローナや、ミラノ(オペラの作曲を依頼される)、パルマ、ボローニャ(当時64歳だったマルティーニ師に対位法の教えを受ける)、フィレンツェ、ローマ(教皇のクレメンス14世の勅令により、黄金の騎士軍勲章を授けられる)、ナポリと続く旅をし、至る所で、歓迎や仕事の依頼、成功を収める。しかし、ミラノでの就職口探しは、失敗に終わる。「王侯貴族の移り気」にモーツアルトは生涯翻弄されるのである。

このイタリア旅行で、モーツアルトが受けた刺激と影響は多大である。又、イタリア語をマスターした事も、オペラのレチタティーヴォを書く時などに、大変役立った様である。

コロレド大司教とザルツブルグとの訣別まで

故郷に戻ると、以前の大司教は亡くなり、新しくコロレド大司教が選任されていた。

後に決定的な仲違いをすることになるこの支配者は、まだこの時期、モーツアルト一家に厚意を示している。しかしながら、レオポルドに対する、支配層からの反感は強まっていた。狭いザルツブルグに閉じ込められたモーツアルトは、年俸150グルテンのコンサートマスターとして、生活の保障と引き換えに陰々滅々として7年半過ごす。音楽的な刺激のない田舎の町の生活に、ひたすら閉塞感を感じていた。夏期休暇を利用して、ウイーンに就職探しの旅に出かけるが、失敗に終わり、旅費も次第に底をつく。しかし、このウイーン旅行で、モーツアルトは失いかけていた情熱がよみがえったように、音楽はドイツ的な方向転換をする。1773年は、豊潤な年となるが、この時期、クラヴィア協奏曲の分野にも手を染めている。この、「ピアノ協奏曲」というジャンルは、そろそろ年齢が行き、幼い頃の名人芸が通用しなくなっていたモーツアルトにとって、新たな自分を魅せる強みとなる。

その翌年は、ミサ曲など教会音楽を作って、忠実に宮廷音楽家としての職務を果たしたり、ミュンヘンの宮廷からオペラ・ブッファの注文を受け成功する。この頃は、ギャラント(優雅で軽快な)・スタイルが大衆の好みであった。

父子は、ウイーンや、ミラノ、ミュンヘンなどで就職口を探そうと試みるが、コロレド大司教とウイーンのつながりは意外に深く、また、ヨーロッパに多大な勢力を誇っていた女帝マリア・テレジアも、モーツアルトの雇用に難色を示しており、目的は果たせなかった。

1777年8月1日、3度目の請願で、ついに辞職願いを出すが、父親の辞職も条件だった為、父レオポルドは年老いた自分は職に留まる決意をする。

1777年9月23日、22歳を前にしたモーツアルトは、母親のマリア・アンナと共に、故郷を飛出し(コンサートマスターを辞職)、新天地を求める旅に出る。

ミュンヘン、アウクスブルグ、マンハイム、と旅をし就職口は見つからず、パリに到着し、その地で母親が病死する。旅の疲れから体調が弱ってしまったのである。マンハイムからパリまで同行させられた訳は、息子が女性関係で身を持つ崩さない様に、又、自分達以外の他の家族と仲良くしない様にと、レオポルドが付けた監視の役割であった。しかし、モーツアルトの悲しみと寂しさは相当なものであったと思われる。悲しい時でも長調を作曲するモーツアルトが、この時ばかりは、激しい短調のピアノソナタK310を作曲している。

パリで生活するためには、生徒を取ってレッスンして生計を立てなければならなかった。
これは、モーツアルトに向く仕事では無かった。パリからは、父親にこんな手紙を送っている。「大好きなお父さん。…この土地でいちばん勘にさわるのは、あの馬鹿なフランス人たちが、僕の事をまだ7歳の子供だと思っている事です。というのも、7歳の時、ぼくを見たからです。…この土地でレッスンする事は、生半可なことではできません。身も心も消耗します。しかも沢山レッスンしなければ、お金は沢山入ってきません。…」パリ滞在は6ヶ月間、帰路は、母を亡くしたモーツアルトの一人旅となった。就職探しの旅が失敗に終わったのは、いかに天賦の才に恵まれていても、彼はまだ若く、音楽家の長となるには経験不足とみなされたことがあるだろうと考えられている。又、父親との二重採用への筋書きが垣間見えてしまう為、そこも雇用者の懸念すべき点だったのである。モーツアルト自身は、プロの音楽家としてフリーランスで活躍するのも悪くないと思っていた様だが、父レオポルドの野望は、名声と格式ある地位に就かせて、なおかつ自分も移住する事だったのである。

パリで職を斡旋された中で唯一父が気に入ったのは、ヴェルサイユ宮殿のオルガニストの口だったが、段々、家族企業に懐疑的になって来たモーツアルトは、それを受けなかった。
レオポルドから、あの手この手で、ザルツブルグへ呼び戻し作戦が始まる。

パリに来る前のマンハイム(マンハイム時代は、仕事面でも充実する。)で、写譜師のウェーバー氏にお世話になったモーツアルトは、その娘で歌手の卵のアロイジアに恋をする。1778年のクリスマスの頃に、彼女とミュンヘンで念願の再会を果たすが、既にミュンヘンでオペラ歌手になっていた彼女との恋に破れたモーツアルトは、一年半ぶりにザルツブルグに戻る事になる。

1779年23歳の頃、ザルツブルグ宮廷楽団のオルガン奏者兼コンサートマスターとして正式に任命されるが、劇場もオペラが生活に根ざしていないこの地で、モーツアルトにとっては単調で灰色の日々を送る。
そうこうする内に、ミュンヘンのカール・テオドールより依頼されたオペラの傑作「イドメネオ」の大成功により、再び自信を持ち始めたモーツアルトと、ザルツブルグ大司教コロレドの関係は、悪化の一途をたどり、ついに、ウイーンで決裂する。アルコ伯爵からお臀を蹴られて、大司教サイドとの最期の訣別を迎える。

父に宛てた手紙では、「お父さんも喜んで下さい。ぼくの幸福は今日始まるのですから…。」と述べている。狭い街での生活の保障を捨てて、ウイーンでの自立と自由に向けての生活の始まりであった。それは、父の保護と支配下からの別れでもあった。

モーツアルトは、実人生で一人前の独立をとげ、音楽の中にも、独立した自己を確立したと言われている。

コンスタンツェとの結婚

ウェーバー家の主の亡き後、夫人は下宿屋を営み生計を立てるが、ウイーン時代の初め、モーツアルトはそこに部屋を借りる。三女コンスタンツェ(アロイジアの妹)と結婚するまでには、家族の猛反対を受けた。モーツアルトにとって結婚は、父からの解放と分離を意味した。浪費家で、生活の切り盛りが出来ない悪妻と言われたコンスタンツェは、身体が弱く、家の財政が困窮した晩年も、チェコの湯治場へ行くなどしているが、モーツアルトは愛情深い手紙をしょっちゅう送っている。興味深い事に、終生、貴族の女性を追い求めたベートーヴェンと異なり、モーツアルトは、手紙の中でも「金持ちの女は欲しません。」と書いている。

ウイーンに定住

ウイーンでは、自作の出版や、大演奏会などによって、比較的容易に自活の道が開かれた。ウイーンでのモーツアルトの最大の庇護者は、ヨーゼフ2世であった。オペラ「後宮からの誘拐」は、大成功をおさめる。また、バッハの末息子ヨハン・クリスティアン・バッハとの親交を持ったり、今までにはみられない大勢の人々と、層の厚い親交を持つ。

又、台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテと知り合い、オペラの作曲に精を出す様になる。
フィガロの結婚、コシ・ファン・トゥッテ、ドン・ジョバンニ。傑作オペラが次々に生み出される。
プライベートでは、2人の男の子に恵まれる。(6人生まれたが、当時は衛生状態が良くなかったため、生き残ったのは2人である)。宗教の秘密結社フリーメーソンにも入団する。(ハイドンも同じ頃に入団している。)ビリヤードなども楽しんだ様だ。

そして、1787年に父レオポルドが死去する。

経済的な窮乏と念願のドイツ語オペラ「魔笛」の作曲

ヨーゼフ2世から、王室宮廷作曲家の称号を与えられるも、モーツアルトは、金銭感覚に秀でていなかったため、1788年から借金地獄に苦しむ。父レオポルドの遺産も、意図的にモーツアルトには与えられなかった。この頃から、モーツアルトは既に病に冒され始めていた。

興行主のシカネーダから、かねてより、作曲したいと願っていた<ドイツ語>のオペラ(通常、オペラはイタリア語)「魔笛」の作曲を持ちかけられる。モーツアルトは快諾し、一ヶ月程で9割程仕上げるのだから、かなり嬉々として取り組んでいた事が判る。

この時期、モーツアルトは、ねずみ色の服を着込んだ背の高い男から、署名の無い作曲依頼状を受け、「レクイエム」の作曲に承諾する。

「魔笛」の初演では場末の劇場で行われたが、貴族だけでなく、一般市民でも会場が埋め尽くされた。モーツアルトの晩年は、ウイーンでの成功と裏腹に、経済的な窮乏、病いとの闘いがみられる。

レクイエムと最期

35歳になっていたモーツアルトは、その若さで、1971年12月5日に永遠の眠りについた。「レクイエム」は、中途になっていた為、死の床から、弟子のジェスマイヤーに、自分の死後、完成させる様に指示を出している。 貧しさの中で亡くなったモーツアルトの葬儀は、近親者のみの参列の中、遺体は、十字架さえ建てられること無く、共同墓地に埋葬された。
モーツアルト胸像

モーツアルト胸像

[ 追記 ]

モーツアルトが去った後の、ザルツブルグの対応と姉ナンネルの態度
モーツアルトに去られたザルツブルグは、その後、モーツアルトの名前を市を挙げて排除したという研究がある。姉のナンネルも、晩年、弟については好意的とばかりは言えないコメントを残している。

参考文献

  • ミシェル・パルティ著 「モーツアルトー神に愛されしもの」海老沢敏監修 高野優訳 創元社、1991年
  • メイナード・ソロモン著 「モーツアルト」石井宏訳 新書館、1999年
  • 柴田治三郎 編訳「モーツアルトの手紙上・下」岩波文庫 1980年